「急須」も知らぬ高校生と「利休鼠」

(第314号、通巻334号)

    「最近の高校生は、日本茶の入れ方を知らないばかりか、急須の使い方も知らない」――1月27日付けの朝日新聞社会面にこんな記事が出ていた。日教組の教研集会で家庭科の女性教諭が発表した内容だ。その先生の報告によれば、茶葉と水を入れた急須を直火にかけようとした生徒もいたという。

    この記事を受けて翌日の同紙「天声人語」は、「粗茶ですが」とか「茶柱が立つ」といった言葉も知らないのではないか、と危惧し「文化や歴史をまとう“お茶”と無縁に子らが育つのは寂しい」と嘆いていた。二番煎じで恐縮だが、私も新聞記事にまったく同感だ。

    お茶といえば、東京美術学校(現東京芸術大学美術学部)の校長を務めた岡倉天心が明治時代に「茶道は日本の伝統的民族文化の結晶」として英文で『茶の本』(The Book of Tea)という題の著作にまとめ、世界に紹介した我が国独自の“芸術”である。にもかかわらず、昭和に入って少しずつ芸から遠ざかり始めたようだ。

    かつて、当ブログで童謡「城ヶ島の雨」の歌詞を扱ったことがある。「この道」「からたちの花」など数々の名曲の作詞でも知られる詩人・北原白秋が最初に作詞したという作品である。その1番の歌詞に
    [雨はふるふる 城ケ島の磯に
    利久鼠(ねずみ)の雨がふる
    雨は真珠か 夜明けの霧か
    それとも私の 忍び泣き]
とある。2行目の「利久鼠(ねずみ)の雨」が茶道と深く関わった言葉だ。

    この「利休鼠」は鼠の種類を示す言葉ではもちろんない。「利休色(いろ)」のことだという。茶道をたしなむ人には「常識」に違いないが、千利休と縁の深い抹茶の黒ずんだ緑色から出た言葉で、辞書を引いてみると、「緑色を帯びた灰色」とある。そこから、「利休鼠」(染料業界では、「りきゅうねず」というらしい)は、利休色の鼠色がかった色を指す。

    つまりは、色の名前だ。ところが、後に白秋自身が随筆か何かに書いたところによれば、「『利久鼠の雨が降る』といふのはどんな鼠が降って来ますか訊(き)かれて苦笑したこともあった」そうだ。そこまでいかずとも、当方も五十歩百歩。当世の高校生が急須を知らないと、大げさに慨嘆する立場ではない。

鬼の霍乱? 開店休筆

(第313号、通巻333号)

    自分の体のことを「病気のデパート」のようなもの、とふだん言っている私は頑健という言葉にはほど遠い身だが、不思議なことに家族が風邪で熱を出したり、体調が悪くで寝込むようなことがあっても、私自身はめったに高熱に見舞われることがないの。ところが先日夕、なにか体が熱っぽく感じられたので、体温計で計ったところ、36度後半。体のどこにも痛みもなく、胃腸の具合もほぼ平常。このぐらいはどうというこもあるまい、と高をくくっていたら1時間後に37度を突破。それから短時間のうちに体温が上昇し、ついには38度台に。早々と床についたが真夜中には38度8分までになった。

    インフルエンザかノロウイルスか、とにわかに心配になったが、その後ウソのように熱が引き始めた。友人からは「鬼の霍乱か」と冷やかされたが、このところ新年会などが続くので、大事をとってブログは今回“休筆”することにした。ちなみに「鬼」とは病気には無縁のような元気の人のこと、「霍乱」とは元は漢方用語で、日射病や食中毒のことを指すのだという。
   

「白髪」も読み方次第で意味が異なる

(第312号、通巻332号)
   
    唐の詩人・李白に有名な「白髪三千丈」で始まる五言絶句がある。冒頭の2文字はもちろんハクハツと読む。同じく「白髪」と書いてシラガと発音することもある。

    どちらの読み方でも意味は実質的に同じなのだが、ニュアンス、用法は読み方によって少々異なる。『岩波国語辞典第7版』や『日本語 語感の辞典』(中村明著、岩波書店』などによれば、ハクハツは、全体として白くなった頭髪の意で、一本ずつには用いない。主として改まった文章に使う。これに対して、シラガは、会話にも文章にも用いるが、「しらがを抜く」などのように一本ずつを意識した用法が多い。

    「白髪」の場合の意味の違いは、個人の好みによるところが多いが、日本語には、同じ漢字であっても読み方が2通り以上あり、それによって意味はまったく異なる単語が少なくない。たとえば「生物」。セイブツと読めば、動物や植物など指し、ナマモノと言えば、煮たり焼いたりしてない生のままの食物、多く魚類にいうことが多い。他に、いくつか下記に挙げてみる。

  目下→メシタ、モッカ
  面子→メンツ、メンコ(子どもの遊び道具)
  一寸→イッスン、チョット
  国立→コクリツ、クニタチ(地名)
  行方→ユクエ、ナメカタ(地名、苗字)
  最中→サイチュウ、モナカ(菓子)
  一番→イチバン(順番)、ヒトツガイ(雄と雌の一対)

    3通りの読み方の語もある。
  上手→ジョウズ、カミテ、ウワテ
  下手→ヘタ、シモテ、シタテ
  清水→キヨミズ、シミズ、セイスイ

    と、ここまで書いてきてもっと多様な言葉があることを思い出した。うかつなことに、このブログ「言語郎」に以前詳しく書いたことがあるのだ。しかも第1号(2007年1月10日号)で。テーマは、山田洋次監督の佳品『武士の一分』だった。「一分」は、いっぷん、いちぶ、いちぶん、と少なくとも3通りの読み方があり、それぞれ意味が違う、と前置きして、次のように続けた。以下に記念すべきブログの第1号の一部を再録する。

  [「いっぷん」は1時間の60分の1、つまり時間の単位を表す。「1分1秒を争う」などとも使われる。「いちぶ」は普通、10分の1を指す。「梅が3分咲き」と表現する場合は全体の3割程度、の意味だが、1割の10分の1をいうことも多い。野球の打率を「3割5分6厘」という時の「5分」は1割の半分の意だ。さらには、「ごくわずか」あるいは「まったくない」という語義もある。「敵にも一分の理はある」とか「彼の服装には一分の隙もない」とかはその例だが、この場合は洋数字ではなく漢数字を使う。
 で、最後の「いちぶん」と読む場合の意味はどうか。「譲ることの出来ない一身の面目、名誉」。有り体に言えば、「メンツ(面子)」や「体面」とほぼ同義だが、もっと重々しく、古風な響きがする。背景に「恥の文化」も感じられる。映画「武士の一分」はまさにこれにあたる。]

    日本語の面白さ、奥深さを改めて感じた。

おおらかに「新年明けましておめでとう」

(第311号、通巻331号)
   
    個人的には少々ひっかかりを感じる「新年明けましておめでとう」という表現だが、知人や友人に聞いてみると、長い間言い慣わされてきた正月の挨拶なのだから、文法上の論理をあれこれ言うのはいかがなものか、という意見が少なからずあった。

    もともと、私がこの問題に関心を持ったのは、『明鏡国語辞典』(大修館書店)の編者グループが執筆した単行本『問題な日本語』の中のコラム「使うのはどっち?」を読んだのがきっかけだった。「『朝が明ける』『新年が明ける』は誤り。ほんと?」とのタイトルで以下のような小文が掲載されていた。

  ――夜が明けて朝になり、旧年が明けて新年になるのだから、「朝明け」「新年、明けましておめでとう」などの言い方はおかしいのではないかという疑問である。しかし、これは正しい表現で、「夜(旧年)が明ける」は現象の変化に、「朝(新年)が明ける」変化の結果に注目していうもの。「湯(風呂)がわく」「家が建つ」「穴があく」も同じ言い方。――

    『明鏡国語辞典』の編者代表を務めた北原保雄氏はその後出版した『日本語常識アラカルト』(文春文庫)ではもう少し詳しく持説を展開。「夜」が「明けた」結果として「朝」になるわけであり、「〜が」の個所に動作の主体である「夜」が来ても、動作の結果である「朝」が来ても同じ意味の表現が成立する。なお、この「朝」に相当する語を「結果主語」と呼ぶ――と述べている。

    「湯がわく」という表現なら、湯がわく前に水がわいていなくてはならないという理屈になる。文法に疎い私は、「結果主語」なる専門用語に目を奪われて、なるほどと思ったのだが、その後つらつら考えるに「水がわいた」とは言わないし、「朝明け」という言い方も聞いたことがない(「夜明け」ならあるが)。話を「湯」に戻すと、「沸く」とは『広辞苑』の語釈に従えば、「水が熱せられて湯となる」ことを指す。例文には「風呂が沸く」とある。
    
    『明鏡国語辞典』は、参考にすべき斬新な見解が多く、このブログでもずいぶん利用させていただいているが、事、「新年明けましておめでとう」をめぐる説明には無理があるように感じられてきた。年に1回の挨拶言葉なのだから、もっとおおらかに扱っていいように思う。この正月、我が家に来た旅行会社のダイレクトメールには「新年あけましておめでとうございます」に続けて、「謹んで新年のお慶びを申し上げます」という文言があった。さしずめダブりの“4重奏”である。

「新年明けましておめでとう」再考

(第310号、通巻330号)
   
    3年前の正月の「言語郎」に、年賀状の「新年明けましておめでとうございます」という文面について違和感を覚える、と書いた《注》。「明ける」自体に「年が改まる→新年になる」の意があるので、「新年」を主語の位置におくと、重複表現になるのではないか。だから、「新年」の2文字は不要。どうしても、新年を強調したいのであれば、「新年」と「明けまして」との間に半文字分空けた方がよい、との思いを長い間抱いていたからだ。

    もう一つ別の見方をすると、「明ける」には「梅雨が明ける」、「休み明け」あるいは「夜明け」のように「〜が終わる」という意味もある。屁理屈をこねると「明けましておめでとう」というなら「(旧年が明けて、or古い年が終わって)おめでとう」とも解釈できる。いきなり「旧年」と来ては年賀状の気分が出ないが、理屈としては成り立つ。

    今年の正月に我が家に届いた年賀ハガキには「新年明けましておめでとうございます」の文面は今のところ1通もない。と書いた直後にメールチェックしてみたら1通だけ「新年あけまして……」とひらがな書きしたものがあった。元日付の新聞の年賀広告でも1件見かけた。この二つ以外には目にしていない。「明けまして……」との書き出しか、「謹賀新年」「迎春」とかいった決まり切った賀詞がほとんどだった。
    
    たかが賀状、されど賀状。定型の挨拶文ではあっても言葉のあり方としては“結果主語”など文法的な興味深い問題を含んでいるようなので、次回に少し詳しく論じてみたい。

《注》 2010年1月6日号「『新年明けましておめでとう』は誤用か」

インクとインキ

(第309号、通巻329号)

    年賀状書きと言うと、一昔前までは版画を彫ったり、プリントゴッコで印刷したりしたものが多かったが、昨今はパソコン作成が主流になった観がある。年賀用の官製はがき(郵政公社製)でも普通の用紙とは別にパソコンのプリンターで使うインキ用として「インジェット紙」版が発売されている。

    インキとインク。どう違うのか。例によって辞書で調べてみると、「インキ」の項には「『インク』のやや古い言い方」とあり、用例に「印刷インキ」の一語が載っている。「インク」の項をくくると、「筆記や印刷に使う着色した液体。インキ」と出ている(『明鏡国語辞典 第2版』)。要は同じものを指しているのだ《注1》。

    ただ、印刷業界では「インキ」というのが普通。新聞社でも新聞用紙の印刷に使うのは「インキ」と呼んでいるが、一般の人は「万年筆のインク」とか「パソコンのプリンターのインクが切れた」などと「インク」を用いる。元々は英語のink(一説にはオランダ語のinktとも)からきている。

    同じ英語からとったカタカナ語でも、違う言葉として使われている例も多い。batteryがそうだ。たまたま今、テレビのスポーツニュースを見ていたら大リーグのダルビッシュダルビッシュ有投手が出演中で、女房役の捕手のことが話題にあがっていた。投手と捕手のことをバッテリーという。一方で、電気器具の蓄電池のこともバッテリーと呼ぶ。元は同じ言葉だ。

    野球のストライク。あまりにポピュラー過ぎて改めて説明するとなると難しいが、投手の投げたボールが打者の所定の範囲内を通過することをいう。労働者が賃上げなど労働条件改善の一環として業務を停止することはストライキと称する。英語で言えばどちらもstrikeという同じ単語だ。

    さらに、6人制でボールを打ち合うバレーボール(排球)とテニスのボレーは英語のvolleyから。駆け出し記者時代「(汽車ならぬ)トロッコ記者」と冷やかされたものだが、このトロッコ貨物自動車を意味する英語のtruckと同じだ。他にも、lemonade(→ラムネ、レモネード)」、machine→ミシン、マシン)など枚挙にいとまがない。

    ちなみに、日本で最初の和英辞典『和英林語集成』を編纂したヘボン博士の名前はHepburnと綴る《注2》。映画「ローマの休日」などで知られる女優の名前も同じ綴りだが、こちらはヘップバーンで通っているのはご存じの通りだ。


《注1》 インキとインクについて、『日本国語大辞典第 2版』(小学館)は下記のように詳しく説明している。
(1)インキ(ト)の原語をオランダ語のinkt と考え、江戸中期に渡来して一旦定着した後に、英語を原語とするインクが広まったと考える説と、オランダ語の影響は実際には大きくなく、同じく英語を語源としながら最初はインキが、そして続いて音転形のインクが、ともに定着したと考える二つの説がある。
(2)明治期の用例ではインキの方が遙かに早く出現しており、数も多い。その後も長らくインキが優勢な時期が続いたが、現在はインクの方が優勢。

《注2》 ヘボン式ローマ字の「ヘボン」も同じ人物。

「金の草鞋」で尋ねる

(第308号、通巻328号)

    2012年の世相を表す「今年の漢字」の1位にランクされたのは「金」だった。公募した日本漢字能力検定協会によると、日本人選手の金メダルが相次いだロンドン五輪東京スカイツリーの開業、山中伸弥教授のノーベル賞受賞など「多くの金字塔が打ち立てられた」ことが理由に挙げられた。地上だけでなく、空でも932年ぶりに日本の広範囲で観測された金環日食など「金」にまつわる天文現象の当たり年でもあった。

    金といえば、昔から「金の草鞋(わらじ)」という言葉がある。いわく「金の草鞋で尋ねる」、あるいは又「年上の女房は金の草鞋を履いてでも探せ」。このことわざの中にある「金」の文字を「きん」と読む人が意外に多い。

    正しくは「かね」と読む。goldでなくironの「鉄」のことだ。鉄でできた草鞋は普通の藁(わら)で作られたものとちがい、ちょっとやそっとのことではすりきれない。年上の女房は、重くても頑丈な草鞋を履き、時間をかけて根気よく探すだけの価値がある、という意だ《注1》。『明鏡国語辞典 第2版』(大修館書店)や『デジタル大辞泉』(小学館)には、「『金』を『きん』と読むのは誤り」と注意書きが添えられている。

    これも、前号の12月12日付けブログで取り上げた「誤用とは気づきにくい言葉」の一つだろう。以下はその続編として読んでいただきたい。

 ×魁(かい)より始めよ→ ○隗より始めよ
 ×苦渋を味わう→     ○苦渋をなめる
 ×軽(けいそつ)→   ○軽
 ×言を待たない→     ○言を俟たない
 ×後畏(おそ)るべし→ ○後畏るべし《注2》
 ×思想堅固→       ○志操堅固《注3》
 ×(しのぎ)ぎを削る→ ○を削る《注4》
 ×寸暇を惜しまず→    ○寸暇を惜しんで
 ×剣もほろ(ほ)ろ→    ○けんもほろろ《注5》

    いずれも、ついうっかり使いがちだ。ただし、上に挙げた言葉で「×」としたものが、必ずしも間違いとは言い切れない語もある。例えば「軽卒」。『明鏡国語辞典 第2版』では、「俗に軽卒とも書くが、誤用とされることが多い」としているかと思えば、『新明解国語辞典第7版』は「軽卒、とも書く」と寛容。異説というより現状追認と言うべきか。


《注1》 年上の女房に限らず、価値の高いものを探すときの喩(たと)えにも使われる。

《注2》 「後世」は後に来る時代のこと、「後生」はあとから生まれてくる人の意。

《注3》 「志操」とは、志をか堅く守って容易に変えない心。

《注4》 「鎬」とは、刀身の刃と峰との間を一線に走る、少し高くなった部分。

《注5》 「けん」も「ほろろ」もキジの鳴き声だが、その声が無愛想に聞こえることから「冷淡でとりつくしまもない」という意味になったという。