肯定か否定か、文末の予測が「全然やりずらい」

(第326号、通巻346号)

    「毎週1回発行をノルマにするのはきつい」「この際、しばらく休んでは」などとの思いやりの言葉を真に受け受け、暫く休筆していましたが、2週間ぶりに再開します。始めからスピードを出さず、ゆっくりとしたペースで、ポツリ、ポツリと行くつもりです。時に、中途半端な終わり方になるかもしれませんが、ご容赦をお願いいたします。
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    「とても」と「全然」は非常によく似た副詞である。共に程度の激しさを表す。用法もほとんど同じだ。この二つの単語については、数年前の当ブログで2回取り上げたことがあるので、今回は過去のブログの中身を抄録して引用しながら、テーマを文章の文末が肯定で終わるか、それとも否定、打ち消しを伴う内容なのか予測する“ツール”としての機能面に焦点をしぼってみたい。

   「全然」は言うまでもなく、文の後ろに否定の語か打ち消しを伴う副詞――というのがごく一般的な大人の常識だった。「とても」もほぼ同じだが、歴史的には若干歩みが異なるようだ。全然は「全然読めない」「全然ダメだ」というような使い方をする。ところが、近頃は「全然旨い」「こっちの方が全然大きい」などと、「非常に」「とても」の意味で肯定的に使われることが多い。

    この傾向は若者から熟年層まで広がりつつあるが、言葉に敏感な、とくに文筆に携わる人たちは、違和感を覚え、間違った使い方だとして眉をひそめる。かくいう私もそうだった。現に多くの辞書も「会話などで、断然、非常に、の意に使うこともあるが、誤用」(『岩波国語辞典』第7版)というように「俗な語法」と断定している。

    否定を伴う“本来の”用法は、文章の最後まで読まないと結論がどっちに転ぶか分からない日本文の欠点の一つを補うすばらしい「ツール」である。長くて分かりにくい悪文の典型は裁判の判決文である。たとえば――東京高裁が扱った大麻事件の判決文の一部を見ると、「これを大麻たばこ7本に関する捜索押収……」で始まる一文は40字詰め、26行の間に1度の句点(。)もないうえ、「合理的な範囲を超えた違法なものであると断定しさることはできない」という具合だ。途中、いろいろな事由をあげているのでそれを裁判所は認定したかと思っていたら、「断定することはできない」と肩すかしだ。

    文の途中に“まったく”とか、“とうてい”、あるいは“決して”などの「予告副詞」を入れて文を短く切っていれば、読み手に肩すかしを与えずに済むことだ。「全然」もそんな副詞の典型的例だ。ところが、『大辞林』第3版(三省堂)によれば、明治、大正時代には「全然」は否定を伴わずに「すべて、すっかり」の意で肯定表現にも使われていたという。『日本国語大辞典』第2版(小学館)には、肯定的な文例として夏目漱石の『それから』の「腹の中の屈託は全然飯と肉に集注(中)してゐるらしかった」という一節を載せている。要は、もともと、肯定表現にも否定表現にも使うことができたのである。それが、否定表現との結びつくことが多くなったのは大正末から昭和初めにかけて、とされる。

    「全然」の逆の例として「とても」も取り上げるつもりでいたが、紙幅が尽きた。このまま、延々と続ければ判決文のようになってしまうので、続きは次回にしよう。