「忘却」と「失念」

(第327号、通巻347号)

    「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」。1952年(昭和27年)から翌年にかけ放送されたNHKの連続ラジオドラマ「君の名は」の、有名な冒頭のナレーションである。明治時代、石川啄木に「さいはての駅に降り立ち……」と詠われた北海道・釧路の片田舎の小学生が「忘却」もせず覚えているのだから、毎週木曜夜の放送日には雑音混じりの“真空管ラジオ”にかじりついて聴いていたのだろう。しかし、このナレーション、叙情的な詩の響きはもつものの、よくよく字句をみれば、単なる同語反復にほかならない。原作者の菊田一夫の魔術にのせられたわけだ。

    「忘」の関連で思い出すのは「失念」という単語である。うっかり忘れることをちょっと気取って言う感じがある。「“失念”と言えば聞きよい“物忘れ”」と、川柳で冷やかされる通りだ。このブログを書いている私自身、居間で「失念は辞書ではどう説明しているのだろう」と気になり、各種辞書に当たるため自分の書斎に一歩足を踏み入れたとたん、何をするためにこの部屋に来たんだっけ、と考え込んだ。ほんの1、2秒前のことを忘れてしまい、思い出すまで一苦労した。今回に限らない。最近は毎日「失念」の連続である。「失念とは一時的な物忘れである。失念すまいとして物忘れじを誓う老いの悲しさよ」。

    1カ月前、私の団地の集会室の一つで自治会主催の「認知症サポーター養成講座」が開かれた。講師も聴講者もみな団地住民。いわば自主講座である。認知症の兆候の一つは「記憶障害」という。ほかに時間や方向感覚が薄れる「見当識障害」や「理解・判断力の低下障害」なども見られるという話である。どれも、これも私に当てはまる。これでは、サポーターでなく、サポートを受ける側になってしまう。

    ラジオドラマ「君の名は」のヒロインは、国際派の大女優・岸恵子である。数日前、テレビ朝日の「徹子の部屋」に出演したのを見た。80歳というが、傘寿とはとても思えない若さと気品のある美しさに驚いた。つい最近『わりなき恋』という小説を出版したばかりだ。「わりなき」の「わり」は「理」のこと。まだ読んでいないので断定はできないが、題名は、「理屈や分別を超えて、どうしようもない恋」を意味しているのだろう。認知症とは無縁の世界のようだ。

    前回のブログでお断りしたようにこれからは「(締め切りを設けず)ゆっくりとしたペースで、ポツリ、ポツリと行くつもりです」。こちらは、詩情もロマンのかけらもない「わりなき事情」からです。悪しからず。