誤用とは気づきにくい言葉の数々

(第307号、通巻327号)

     12月も半ばになれば、歳末商戦も本格化する。デパート、スーパー、コンビニ、小売店にとっては「かきいれどき」だ――こうワープロソフトで打つと「書き入れ時」と変換された。おやっ、「掻き入れ時」が正しいはずなのにおかしい、と思う人も多いのではあるまいか。実は私もその1人だった。

    実は、正解は「書き入れ時」。意味は、言うまでもなく、商店などで売れ行きが最もよく、もうけのきわめて多い時期(時間帯)のこと。売り上げを帳簿に書き入れるのに忙しい時の意から生まれた言葉だ。売り上げを「掻き集める」意味ではないのだという。『明鏡国語辞典 第2版』(大修館書店)が「『掻き入れ時』と書くのは誤り」とわざわざ述べているのは、誤用している人が多いことの現れだろう。

    このような思い込みによる言葉の誤用はかなりある。元気のない人を刺激して力づける「かつを入れる」の「かつ」。つい「を入れる」と書きがちだ。が、「喝」は「禅宗で励まし叱る時の叫び声。大声でおどすこと」を言い、元気をつけるという意味の場合は「を入れる」とするのが正しい。

    自省も込めて他にも間違って用いやすい言葉をいくつか挙げてみよう。
  ×外交辞礼→         ○外交辞令
  ×昔日の感→         ○今昔の感《注1》
  ×肝入り→           ○肝煎り
  ×首実験→           ○首実検
  ×木っ葉微塵→        ○木っ端微塵
  ×新規巻き直し→      ○新規蒔き直し
  ×疑心暗鬼を抱く→     ○疑心暗鬼を生ずる
  ×聞いた風なことを言う→ ○利いた風なことを言う《注2》
  ×くしの歯がぬけたよう→ ○くしの歯が欠けたよう
  ×国敗れて山河あり→   ○国破れて山河あり
  ×ご静聴ありがとうございました→ ○ご清聴ありがとうございました《注3》

    まだまだあるが、今回の最後に「瓦」を挙げよう。瓦が一部落ちたのに引きずられて他の物もがらがらと落ち、全体が一挙に崩れることだが、これを「瓦」と書いては、これまでの信用も瓦解しかねない。とまで言うのは、ちとオーバーか。


《注1》 「昔日(せきじつ)」は単に昔の意を表し、「昔日の面影(おもかげ)」と連語で使われることが多い。これに対し、「今昔(こんじゃく)の感(かん)」は、今と昔を比べて変化の多い大きいのに驚いておこる感慨を表す。「こんせき」とも読む。

《注2》 分かってもいないのに、そんなことは百も承知だと言わんばかりの生意気な態度をとること、の意。『岩波国語辞典 第7版』などほとんどの国語辞典は「利いた風」のみを見出しにあげ、『明鏡国語辞典 第2版』では「聞いた風」と書くのは誤り、と断じているが、『広辞苑 第6版』(岩波書店)は、見出しに「利いた風、聞いた風」と並列して挙げている。
 

《注3》 『新明解国語辞典第 7版』(三省堂)などによれば、「静聴」は「私語したりせず静かにして聴くこと」で、講演などの前や途中で「ご静聴願います」というように使う。一方、「清聴」は「人が自分の話など聞いてくれることを、その人を高めていう語」で、講演の締めくくりの挨拶に用いられる。

「大きい顔」と「大きな顔」の違い

(第306号、通巻326号)

     前号の11月28日付けの「違くない、好きくない」は、当ブログ開設以来最大の反響があった。コメントも、これまでにないほど多数寄せられた。その中の一つに「“大きい”と“大きな”は、元々は別の単語だったのか」という質問があった。

    いささか虚を突かれた思いで調べてみた。結論としては、同じ単語から生まれたものだ、と分かった。『日本国語大辞典 第2版』(小学館)によれば、「大きい」は古語の形容動詞「おおきなり」が室町時代以後に形容詞化して生まれた。一方、「大きな」は、「おおきなり」の連体形「大きなる」が連体詞の形で残ったものだという《注1》。

    つまり、「大きい」は形容詞だから語尾を「く」と変化させて「大きくない」と否定形にできるが、「大きな」は形容詞でも形容動詞でもなく、連体詞《注2》なので語尾変化せず、ただ名詞(体言)を修飾するだけだ。

    しかし、名詞を修飾するに際しては、「大きい」も「大きな」もほとんど意味に差はない。大きい木と大きな木との違いを説明せよ、と言われても往生する。ただし、修飾される名詞によっては微妙なニュアンスの違いが生じる。例えば――
  ・クラスで一番大きい子:身長や体重などの数値で比べると体格が最大の子
  ・クラスで一番大きな子:数値で比較するのでなく、外見の印象で最大の子
  あるいは又――
  ・大きいりんご:他のりんごと比べてサイズの数値が大きなりんご
  ・大きなりんご:具体的な数値はともかく見た目に大きく感じられるりんご

    こうしてみると、「大きい」は、客観的で正確に説明する場合などに用いられるのに対して「大きな」は、主観的で心理的な思いを表す傾向がある。「大きな顔をする」はその一例だ。これを「大きい顔をする」とするのではこなれた日本語と言えまい。個人の語感にもよるが、「大きい顔」だと物理的に?面積が大きい顔の意になり、「大きな顔」だと俗な表現で言えば「デカイ顔をする」という意味になる。日本語の微妙なところだ《注4》。

   
《注1》 形容動詞という品詞は、「静かだ」「晴れやかだ」のように言い切る時の形が「〜だ」で終わる。橋本進吉の学説を元にした、いわゆる学校文法の概念であり、通説とされているが、時枝誠記山田孝雄らの国文法学者の学説では認めていない(ちくま学芸文庫小池清治著『現代日本語文法入門』、研究社刊、加藤重広著『日本語文法入門ハンドブック』、『岩波国語辞典』などによる)。 

《注2》 『岩波国語辞典 第7版』では、「文語形容詞『多し』の連体形から出た『おほきなり』の『おほき』に形容詞語尾が付いたもの」と説明されている。このような関係にある言葉は、他に「小さな」と「細かな」がある。

《注3》 『三省堂国語辞典 第6版』は、「形容動詞とする説もある」と語義の中でわざわざ注をつけている。

《注4》 海外からの留学生を相手にする「日本語教育」の授業の際、「大きい」と「大きな」の違いについてよく質問を受けるが、分かりやすく説明するのに苦労するという日本語教師の悩みを、あるウェブサイトで目にしたことがある。

「違くない」「好きくない」。動詞の形容詞化の兆し

(第305号、通巻325号)

    「ちがくない」、「すきくない」。こんな妙な言い方を耳にするようになったのはいつごろからだろうか。若者たちの間ではすでに20年ほど前から使われていた、と言う人もいる。一時的なハヤリとは言えない。日本語文法の変化の兆候の一つだろう。「違う」を否定するなら「違くない」ではなく、「違わない」とすべきであり、「好き」の否定なら「好きくない」ではなく、「好きでない(好きじゃない)」とするのが普通だが、言葉の変化は、前回のブログになぞらえて言えば「すごい速い」と感じる。

    「違う」はれっきとした動詞だ。語幹は「ちが」。5段活用なので、否定の助動詞「ない」に接続するときは未然形の「わ」の活用語尾を付けて「違わない」となる。『明鏡国語辞典 第2版』(大修館書店)には、「違う」の見出しの語義の後にわざわざ[注意]を設け、以下のように述べている。
 [「違く」の形で形容詞のように使うのは誤り。「×実力はそんなに違くない→○そんなに違わない」、「×AとBは方針が違く→○違っていて」]

    言葉の変化には寛大な『明鏡国語辞典』もまだ追認していない、というより、文例を二つも挙げて正しい用法に導こうという強い姿勢が感じられる。

    「好きくない」も非文法的言い方だが、「違くない」とは少々事情が異なる。「好きくない」の語幹にあたる「好き」は、動詞そのものではないからだ。「好き」は形容動詞である。外国人に日本語を教える「日本語教育」の世界では、“ナ形容詞”と呼ぶようだ《注》。が、その元をたどれば、「好く」という動詞になる。いずれにしろ否定形にするなら、「好きでない」、話し言葉にすれば「好きじゃない」と言うべきであって、「好きくない」という言い方には違和感を覚える。言葉の習得中の幼児が言うのであれば自然だが、あどけない時期を“卒業した”年齢の者が使えば、あえて幼さをよそおっているのか、言葉に鈍感か、それとも単に無知なのか、判断に迷う。

    言葉は常に生まれ消えていくものと頭では思っていても、新語や語義の拡大、用法の変化と違って、日本語の構造の基礎の文法の変化にまではなかなかついていけない。


《注》 日本語教育では、語尾が「〜い」「〜しい」で終わる修飾語を“イ形容詞”と呼んでいるようだ。これに対し“ナ形容詞”は「きれいな+名詞」「静かな+名詞」のように活用語尾が「〜な」となる。物事の状態や性質、人間の感覚、好みなどを表す。

【お断り】 今回のテーマについては、考察がまだまだ不十分なので、後で手直ししたい。

「すごい速い」。辞書のスピードにびっくり

(第304号、通巻324号)

    先日、囲碁の同好の士と熱海に一泊してJR東海道線で大船に帰る途中、「快速だと、すごい速いね」という若者の言葉が耳に入った。各駅停車なら1時間と少しかかるのに、乗ったのが快速アクティだったので、ちょっぴりはやく55分で着いた。しかし、それを表現するなら「すごく速い」と言うべきだろう。

    形容詞を修飾する語は副詞か、形容詞の連用形(副詞用法)だ。「すごい」は形容詞の終止形・連体形だから、非常に速い、という意味で使うなら連用形の「すごく」というのが日本語文法の常識である。そう習ってきた私は、「すごい速い」という表現に“すごく”違和感を覚えた。その言い回しはしかし、かなり以前からよく使われていたようだ。

    言葉に関する新聞記事や雑誌のスクラップ、参考書、ネットなどで調べてみると、文化庁の国語世論調査では1996年度(平成8年)からこの表現を調査対象に取り上げている。NHKアナウンスルームのホームページ(2010年5月10日付け)「ことばの宝船」《注1》でも、文化庁の調査結果や東京・渋谷で聞いた話をもとに、「『すごく楽しい』と言うべきところを『すごい楽しい』と言う人が増えている。とくに若い人に目立つ。『すごく』は書き言葉のような硬いイメージがするので、会話には使わないのだろう」と解説。最近は一部の辞書に「“すごく”とすべきところを俗に“すごい”と言うことがある」と載るようになった、と述べている。

    まさかと思いつつ手元の国語辞典にあたったところ、掲載は一部の辞書に限らなかったので驚いた。
 ・『明鏡国語辞典 第2版』(大修館書店):話し言葉では、「すごい」を「すごく」と同じように連用修飾に使うことがある。
 ・『岩波国語辞典 第7版』:俗用ながら口頭語では「今朝はすごい寒い」など連体形を使うのが普通になった。
 ・『三省堂国語辞典 第6版』:連用形で「すごく」と言うべきところを俗に「すごい」と言うことがある。
 ・『新明解国語辞典第7版』(三省堂):「すごくきれい」を「すごいきれい」などと、「すごい」を副詞的に用いることがある。

    愛用している小型辞典の4冊が4冊とも、許容の程度の差はあってもそろって採録しているのだ。また、中型辞典でも、最新刊の『デジタル大辞泉』は「すごい」の副詞的な言い方を肯定的に扱っている《注2》。自分としては言葉の変化に敏感な方だと思っていたが、実際にはいかに視野が狭かったことか、反省しきりだ。

    
《注1》 URLはhttp://www.nhk.or.jp/kininaru-blog/55107.html

《注2》 『広辞苑 第6版』(岩波書店)には、「すごい」の副詞用法の記載はない。『大辞林 第3版』(三省堂)は、近年、くだけた言い方で「すごく」の代わりに「すごい」を副詞的に使う場合があるが、標準的でないとされる、と歯止めをかけている。これは今や少数派だ。

「政局になる」という新用法、辞書も追認

(第303号、通巻323号)

    今冬の木枯らし1号は、関東地方ではまだ吹いていない。が、東京・永田町には先週なかばから「解散風」が吹き始め、日ごとに強まっている。前回のブログで取り上げた「近いうち」が現実化してきたようだ。このような情勢が永田町用語でいう「政局になる」ということなのだろう。

   そもそも政局とはなんなのか。政局の「局」という漢字は、さまざまな意味を持つ。学問的に評価の高い白川静博士の漢和辞典『字通』(平凡社)には20以上もの語義が載っている。が、ここでは歴史的な古い意味は省いて煩雑さを避けるため、『日本国語大辞典』第2版(小学館)に従って、大きく次の6種類に分けてみた。
 1)いくつかに分けられた部分。くぎり。しきり。小分け。
 2)家の中の、しきって隔ててあるところ。部屋。つぼね。
 3)役所などの、事務の一区分。また、それを担当する部署。
 4)郵便局、電話局、放送局などの略称。
 5)囲碁、将棋、双六などに用いる盤。また、(その盤を使ってする)囲碁、将棋、双六などの勝負。
 6)さしあたっての場合、仕事、事柄。当面する事柄、仕事、状況

    分類を改めて見ると、語義の発展具合がよくわかる。「政局」という場合は、6)のうちの「状況」にあたる。だから「政局」は文字の上では「政治の状況」ということになる。『デジタル大辞泉』には、第一義として「 ある時点における政治の動向。政界の情勢」、第二義に「政党内・政党間の勢力争い。特に、与党内での主導権争い。多く、国会などでの論戦によらず、派閥や人脈を通じた多数派工作として行われる」とある。

    上記の第二義の用例として「政局になる」が添えられている。この「〜になる」は近年になって使われ始めた表現で、採録している国語辞典はまだ多いと言えない。が、変化の兆しは既に出始めており、しかも広がりつつある。規範意識の高い『岩波国語辞典』(第7版)は「政権担当者に関する動きの意にも使う」とまだ慎重な言い回しだが、『三省堂国語辞典 第6版』は「政変につながる状況」という語釈に続けて「政局になる」「政局にする」の用例を掲げている。

    ところが、今年1月に発行された『新明解国語辞典』第7版(三省堂)はさらに一歩踏み込み、次のような注を「運用」の欄に書いている。
 [政治家、報道関係者では「政局にする(なる)」の形で、政争を引き起こす(が起こる)の意に用いられ、首相交代や解散総選挙など、政界の勢力分野に影響を及ぼすような局面に言う]

    まさに現今の政治状況そのものだ。しかし、『新明解国語辞典』にしても、実は第7版の5年前の2005年1月10日発行の第6版には上述のような注はなかったのである。

    言葉は生きている。当然、変化もする。それに少し遅れて言葉、用法も変わる。辞書の編纂者は、言葉定着具合を見定めた上で追認し、語釈や用法を書き換える。十数年前には見られなかった「政局になる」という用法もその典型の一つと言える。

《お断り》 この11月14日号のブログは、13日(火)深夜に執筆し、毎週1回の「締め切り日(水)」にあたる14日午前1時16分に配信したものです。14日午後の党首討論の場で野田首相が「16日解散」を表明するとは想定外でしたので、ブログの文章と現実の動向との間にはタイムラグが生じる結果となりました。「政局になった」と過去形で表現すべきところでした。文の流れがおかしくなった一部の個所は手直ししましたが、全体的には一つの記録として原文通りのままとしました。ご了承ください。

「近いうちに」とはどのくらいの期間か

(第302号、通巻322号)

    今から45年前の11月、沖縄返還交渉で返還の期日決定をめぐり、「両3年以内」《注1》という表現の意味について激論が交わされたことがあった。時間の経過に関する言葉は、文脈、感情、心理、思惑などが交錯し、解釈が難しいことが多い。

    身近な例でいえば、乗っていた電車が突然急停車し、「信号が赤になったため止まりました。原因が分かり次第お知らせしますので、しばらくお待ちください」という車掌のアナウンスが流れることが時々ある。その後、5,6分で動き出す場合もあれば、10分経っても20分たっても止まったままのこともある。その間、「もう少々お待ちください」「あとしばらくお待ち願います」と車内放送があればまだいい方だ。あと10分程度なのか、あるいは早くても30分もかかるのか、メドが分からずイライラするケースもまれではない。

    野田首相が8月8日の自民・公明との党首会談で、衆院の解散・総選挙について、自公が消費増税関連法案に同意する代わりに「近いうちに国民の信を問う」と表明してから今月8日で3カ月。この間、「近いうちに」の意味をめぐって様々な解釈が飛び交った。麻生元首相などからは「社会常識としては『近いうちに』というのは2週間そこらが普通だ」との説も示され、一時は、早ければ9月8日に解散し、10月に総選挙という説まで出たほどだ。

    首相自身は衆院解散について「『近いうちに』という言葉を使ったのは事実。その解釈はいろいろな立場の声がある。発言の責任は重く感じている」としながらも、「特定の時期を明示的、具体的に示すのはふさわしくない」との一貫して明言を避けている。元々は、民主としては「近い将来」に、と自公に伝えていたが、自民から「『近い将来』がいつを指すのか分からない」と再回答を求められて「近いうち」に落ち着いた経緯があると解説する向きもある。

    確かに、「近い将来」に比べると、時期が近くなった気がしないでもないが、3週間後とか2カ月以内とか具体的に述べたわけでなく、どうとでも取れるきわめて巧妙な「政界用語」だ。英字紙も英訳に苦心したようだ。「デイリーヨミウリ記者のコレって英語で?」のサイト《注2》から引用させていただくと――

    当のデイリーヨミウリは“sometime soon”、英国のロイター通信は単に“soon”、英BBCは“in the near term”、米ウォール・ストリート・ジャーナルは“the near term”と対応が分かれた。ちなみに、日本の『新和英中辞典』(研究社)には「近いうちに」の英語として“in the near future” “pretty soon” “in a short time” “one of these days” “before very long”が掲載されている。

    元々、日本語には時間の経過を表す言葉が多い。近日中、のちほど、近いうちに、そう遠くない時期に、いずれ、近々、ほどなく、もうすぐ、ほどなく、そのうち、遠からず、ゆくゆく、など枚挙にいとまがない。その中でも「近いうちに」は多用性がある。ネットでも「近いうちのデート、ということだったら どんなに長くても1か月先だ。 短ければ1週間以内」「近いうちに飲みにいこう、と約束したら、3週間以内」という見方が紹介されていた。一方で「角が立たない断り文句」というクールな意見も。

    しかし、現実には、「角が立たない」どころか政争の具にもなっている。私自身の場合、「近いうちいっぱいやろうか」は1、2カ月先のつもりで言うことが多いような気がする。さて、あなたの見方は――。


《注1》 ブログ「壱参亭日常」によれば、当時の米側の文書には“with in a few years”と記録されているそうだ。(http://ameblo.jp/net13ttkk/archive2-201208.html

《注2》  http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/learning/english/20120830-OYT8T00814.htm

鷲は鷹と違うのか?

(第301号、通巻321号)

    英国の作家、マリ・デイヴィスの小説に「鷲の巣を撃て」 (二見文庫、ザ・ミステリ・コレクション)がある。英国の特殊工作部隊がナチス・ドイツヒトラーの暗殺を企てるという筋書きで、史実にフィクションを巧みに織り交ぜた傑作といわれる。

    中欧5カ国周遊の旅の途中、その小説の舞台にもなったケールシュタインハウスをひょんなことから訪れることになった。英語で“Eagle‘s nest”(「鷲の巣」)と呼ばれたヒトラーの別荘だ《注1》。オーストリアとドイツの国境のケールシュタイン(標高1881メートル)の山頂直下に建つ。このブログで取り上げるのは、小説の紹介でも批評でもない。「鷲」の定義についてである。

    ツアーの一行の何人かの間で、鷲は「鷹」と同じ種類の鳥かどうかが話題になった。私は、鷲と鷹は近縁ではあるが別の鳥、と頭から思い込んでいたので、魚のヒラメとカレイの関係《注2》みたいなものでないか、と口をはさんだが、その場はウヤムヤのまま終わった。後で持参の電子辞書にあたり、帰国後も百科事典などで調べてみて、自分の無知を思い知らされた。鳥類の分類上は鷲も鷹も同じ「タカ科」の猛禽(きん)類なのである。

    『ブリタニカ国際大百科事典』(電子版)には「ワシは、タカ目タカ科のうち、比較的大型の種をいい、小・中型種はタカという」とあり、「この分け方と名称は分類学的なものではなく、あくまでも日本における古くからの慣習に従ったもの。それゆえ、大型の種すべてeagleという英名で呼ばれているわけではない」と明快に説明している。逆に言えば、ワシの中には英名でhawkと呼称されるものもあるということになる。

    事典によっては、「ワシタカ科」と記述しているのもあるが、ワシとタカの区別は大きさによる、という点では一致している。両者を分ける大きさの基準は必ずしもはっきりしない。一般的には、ワシは全長が90センチ以上、タカは一回り小さく50〜60センチほどというのが常識的な目安か。ちなみに季語は冬という。

    ワシは、その大きさ、飛翔(ひしょう)力、雄姿から鳥の王者とされてきた。『英語イメージ辞典』(三省堂)には、「天のすべての神の象徴として上昇力、精神力、勝利、誇りなどをあらわす」などと最大級の形容で説明されている。『日本大百科全書』(小学館)によれば、古代から王権の標章とされ、神聖ローマ帝国などの双頭のワシ、十字軍のイヌワシなど、紋章・軍旗に用いられた、といわれる。

    現在でも、野球のチームや軍艦、兵器などの名前にも使われている。沖縄配備をめぐってこのところマスコミで問題になっている米軍の垂直離着陸輸送機の「オスプレイ」とい名前もタカの一種、大きく括ればワシの仲間だ。日本語では「ミサゴ」という。

    話を冒頭に戻す。それにしても、力の源泉のシンボルとして米国の国章にもなっているeagleをなぜ連合国の敵の総大将の別荘の名にしたのか不思議でならない。


《注1》 ヒトラーの50歳の誕生日祝いに建てられた。内部は現在、レストランに改装され、ムッソリーニがプレゼントした大きな暖炉が残っている。チロルの山々や眼下にケーニッヒ湖を望むすばらしい景観に定評があるが、私たちが訪れた日はあいにく雨。一瞬の晴れ間に湖らしきものが目に入ったが、山頂から見えたのは山水画のような雲海ばかりだった。

《注2》 「左ヒラメに右カレイ」という言葉があるように、目が左側にあるのがヒラメ(カレイ目ヒラメ科)、右側にあるのがカレイ(カレイ目カレイ科)。ワシとタカの対比ならクジラとドルフィンの喩えの方がぴったりだ。もちろん、大きい方がクジラだ。