「慮る」は「おもんばかる」か「おもんぱかる」か

(第281号、通巻301号)

    なにかを計画する時に周囲との関係や将来への影響などを考え合わせることを「慮る」という。例えば「相手の立場を慮る」、「事態を慮る」などと使う。この「慮る」をどう発音するか。

    「おもんかる」。私自身は、そうとしか読みようがないと思ってきた。ところが、前回のブログで「生保」を「ナマポ」と発音する今時の若者の言葉遣いを取り上げた際、ついでにいろいろ調べているうちに、ひょんなことから「慮る」の読み方が一様でないことを知った。博識の方にとっては常識かもしれないが、私にとっては新鮮な驚きだった。

    小学館の『日本国語大辞典』第2版によれば、「おもいはかる」の変化した語とある。それが「おもんはかる」に変わり、さらに「は」が濁音化して「おもんかる」という読み方になった、という。中世から近世の日本語を採集して編纂された『邦訳 日葡辞書』(岩波書店)には「ヲモムバカル」《注》と表記され、語義として「考慮する、思考する、推測する、など。文書語」と記述されている。

    だが、現代の国語辞典のほとんどは、「おもんかる」を主見出しに挙げ、「おもんばかる」は従扱いの見出しにしているか、語釈の一つに出すだけで済まして例が多い。「は」の半濁音の「ぱ」も、濁音の「ば」も認めているものの、正統は「ぱ」というわけだ。単純に図式化すると、「は」→「ば」→「ぱ」と変化してきた、ということのようだ。

    言葉は日本語に限らず、時につれて変わっていく宿命にあるが、それにしても、「生保」を「ナマポ」と呼ぶように極めて短期間に変化する例があるかと思えば、「慮る」のように数百年単位でゆっくり変わりつつある語もあることを思うと、言葉は人工的に御せられるものではない、と痛感する。


《注》 「ヲモムバカル」の「ム」は、『邦訳 日葡辞書』では小文字の表記になっている。