「慣用読み」に“寛容”でも逸脱し過ぎると…

(第106号、通巻126号)
    言葉を題材にこんなブログを書いていると、緩急自在に言葉を操る人間と思われがちだが、私の場合は逆である。たった今、文脈を少々無視して「緩急(かんきゅう)」という言葉を強引に使ったが、学生時代にこの漢字を「だんきゅう」と発音して友人に笑われたり、社会人になってからは「奇(く)しくも」のつもりで「きしくも」と口にして上司から注意されたり、言葉にまつわる失敗は少なくない。このブログはそうした過去の反省にたって始めたものでもある。
    漢字のこうした読み方の誤りを揶揄して「百姓読み」とか「田舎読み」とかいう言い方があるが、侮蔑的な響きがあるので、ここでは「我流読み」と名付け、おおざっぱに3種類に分けて取り上げたい。
    まず「矜持」型。きのう13日の衆院で第2次補正予算案が採決されたが、焦点だった「定額給付金」をめぐって麻生首相は昨年、高額所得者が給付金をもらうことを「さもしい」とした上で「そこは人間の持の問題」と何回も発言した。「きょうじ」と正しく発音していたのが妙に耳に残っているのは、首相がかつて「踏襲」の読みを誤って思いこんだまま「ふしゅう」と繰り返していたことがあるせいだろう《注1》。「矜持」は「きんじ」と誤って読まれることが多い。「ふしゅう」が恥ずかしい“太郎読み”とすれば、「きょうじ」は堂々たる“首相読み”と言うべきかも知れない。
    似たような誤読に「憬」がある。「しょうけい」と読むべきところを「どうけい」と言ってしまう。「分泌」(○ぶんぴつ、△ぶんぴ)、「早急」(○さっきゅう、△そうきゅう)も同じ部類か《注2》。しかし、「固執」、「口腔外科」など微妙な言葉もある。例えば「固」は、今では「こしつ」と読むのが一般的だが、本来は「こしゅう」と言った。『新明解国語辞典』第6版(三省堂)では「こしゅう」の項に「‘こしつ’の老人語」として語義は「こしつ」の見出しの方に載せているほどだ。また、「口」は、なぜか医学界では「こうくう」と呼び習わしているが、正しくは「こうこう」と読む。クラゲやイソギンチャクなどの「腔腸動物」を「くうちょうどうぶつ」ではなく「こうちょうどうぶつ」と読む道理だ。
    「能」という熟語も一筋縄ではいかない。ほとんどの人が「たんのう」と読んでいると思われるが、『明鏡国語辞典』(大修館書店)や『三省堂国語辞典』第6版によれば、「彼女はフランス語に堪能だ」のように、学芸にすぐれている様子を示す時には「かんのう」というのが正しいとしている《注3》。
    次は「独擅場」型。誤読が広まって定着し、本来の漢字の方が変わりつつあるケースさえある。「シャンソンを歌わせれば彼の独場だ」のように使われる言葉だが、「どくだんじょう」と言う人が多いのではあるまいか。私もその一人だが、正しくは、「どくせんじょう」という。手偏を土偏と見間違えるせいだろうが、今では新聞も「どくだんじょう」の慣用読みに合わせて「独場」と「壇」の字を使っている。「病膏」(○やまいこうこう、×こうもう→病膏)や「洗(○せんでき、△せんじょう→洗)などもそんな一例だ。
    上に挙げた二つのタイプは言葉の変化という観点からは必ずしも間違いとは言えない側面もあり、目くじらをたてるのもどうかと思うが、最後の「弱」型はかなり問題だ。なんと、この「ぜいじゃく」の2文字を「じゃく」と読む若者がいるというのである。さらに、「造」(○ぞうけい、×ぞう)、「回」(○かい、×かいがん)、「爛」(○けんらん、×じゅんらん)、「烈」(○れつ、×しきれつ)、「垂の的」(○すいぜんのまと、×すいえんのまと)などの誤読がまかり通っているとなれば、事態は深刻かもしれない。日本文化の行く末が心配になる。


《注1》 2008年11月19日付け『言語楼』の「麻生ism」参照。     
《注2》 2008年10月22日付け『言語楼』の「消耗の読みは‘しょうこう’か‘しょうもう’か」参照。一概にどちらが正用か決められないケース。例えば、「分泌」は『NHKことばのハンドブック』(NHK放送文化研究所編)によると、「ぶんぴ」の読みを優先し、「ぶんぴつ」は第2順位にしているが、『三省堂国語辞典』第6版では「ぶんぴつ」を優先し、「ぶんぴ」は空見出し扱いにしている。今回のブログでは一応、○印は本来の伝統的な読み方、△印は実際に通用している読み方、最後の段落にある×印は全くの誤読、と区別している。
《注3》 「ごちそうに(を)堪能する」のように、十分に満足する、の意を示す場合には「たんのう」と読む。『広辞苑』第6版には、「足リヌ」の音便「足ンヌ」の転訛、とあり、「堪能」は当て字としている。