「新年明けましておめでとう」は誤用か

(第157号、通巻177号)
    
    年賀状で「新年明けましておめでとう」という文面を見るたびに少しばかりひっかかりを感じる。「新年」と「明ける」が重複表現になる、と若い頃に聞いて以来だ。
    
    改めてその理由を考えてみると、「明ける」という単語の元々の意味にたどり着く。「明ける」は、明るくなるという元来の意味《注1》から、夜の闇が次第に薄れて朝になる→ 時が経過して次の新しい状態になる→ 年月日、季節が改まる(「年」でいえば次の年・翌年に変わる)、というように転義してきたと思われる。「明けて1月10日、ついに雌雄を決する日だ」はその典型的な一例だ。
   
    正月の挨拶として「明けましておめでとう」と「新年おめでとう」は、なんら問題ない。古い年、旧年(2009年)が改まって新年(2010年)になったことを祝う、という意味だ。しかし、「新年明けまして」と続けると、ダブり感が生じる。あるいは、理屈をこねれば「新年」が「明ける」のだから翌年(2011年)の正月を祝うという意味に解釈可能とも言われかねない。そんなことから「新年明けましておめでとう」は間違いとされているわけだ《注2》。
    
    上述のような伝統的な解釈に対して異説もある。なかなか説得力のある主張で、これを知ると「新年明けましておめでとう」を誤用と言い切るのは短絡過ぎる、とつい思ってしまう。『明鏡国語辞典』(大修館書店)は次のような例を挙げて説明している。
  ――「夜が明ける/朝が明ける」、「旧年が明ける/新年が明ける」《注3》のように、古いものと新しいものの両方を主語に取る場合、前者は現象の変化に、後者は新しく生じた変化の結果に注目していう。同じ言い方に「水が沸く/湯が沸く」などがある――
    
    上の例は自動詞の場合だが、他動詞の場合は目的語が結果を示している。「湯を沸かす」以外にも「ご飯を炊く」「穴を掘る」「ステーキを焼く」などの言葉を挙げることができる。例えば、「ご飯を炊く」は、米を炊いた結果が「ご飯」になるのであって、炊く前は米である。しかし「米を炊く」とは言わない。「穴を掘る」にしても、地面を掘った結果として穴ができたわけで、すでに開いている穴をさらに掘るという意味ではない《注4》。
    
    話を本題に戻すと、「新年明けましておめでとう」は「結果」に注目した表現という理屈も成り立つわけだ。気分としては「新年」と「明けまして」の間に一呼吸おくと違和感が少なくなるのではあるまいか。そのことを意識したわけではないだろうが、1月2日夜に放映されたNHK総合テレビ「ワンダー×ワンダー 紅白の舞台裏」で番組の冒頭、男女2人の司会者が「新年」「明けまして」と交互に、つまり一瞬の間をあけて言った後「おめでとうございます」と声をそろえていた。
    
    私自身は、話し言葉ではともかく文章では、これからもダブり感は避けて書きたいと思っている。


《注1》 『字通』(白川静著、平凡社)などの漢和辞典によれば、「明」の偏の「日」は、太陽の日ではなく、窓を表す象形文字から来ており、「明」は窓から入る月の光、が原義だという。
《注2》 ちょうど1年前の1月2日付けの当ブログ「『元旦』に夜はないのだ」で簡単に触れている。
《注3》 『邦訳 日葡(にっぽ)辞書』(岩波書店、原本刊行は1603年)の「明け」の項目には「年明くる=新しい年が始まる」「明くる日=次の日」の成句が載っている。
《注4》 英語でも「穴を掘る」は“dig a hole”、「ケーキを焼く」は”bake a cake”と日本語と同じように表現する。
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