「他人事」は「ひとごと」か「たにんごと」か

(第279号、通巻299号)

    日常会話ではもちろん、職場の会議などでも自分に直接関係のないテーマが話題になった時には「ひとごと」のように聞き流すことがよくある。この「ひとごと」を漢字でどう書くか。私の場合、「その問題は他人事で済まない」と、表記するのが常だ。これを「人事」と表記する人も多いが、うっかりすると「人事(じんじ)異動」の「人事」と間違え、誤解をしかねない。

    また、「他人事」をそのまま文字読みして「たにんごと」と言う人も最近目立つが、一知半解の身を棚に上げて言えば、相手の知性を疑ってしまう。

    ところが、この言葉の扱いは実はそう単純ではない。むしろ、知性を疑われるのは当方になりかねないのだ。試みに手元の小型国語辞典を2、3調べてみると、「ひとごと」の見出しに「(他人)事・人事」《注1》の2つを併記している。これに従えば、「人事」を「ひとごと」と読むのを許容しているわけだ。

    「ひとごと」を「人事」とするのは、我が国最大の『日本国語大辞典』第2版(小学館)によれば、かなり古い歴史がある《注2》。同辞典の「ひとごと」の見出しには「人事・他人事」の2通りの表記を出している上、『紫式部日記』(1010年)から「かく世の人ごとのうへをおもひおもひ」の文例を挙げている。また『浮世草子』(1687年)からも次のような文例を挙げている。「人事をいはず腹たてず生仏様といはれるるほどの者が」。

    さらに近代に入って二葉亭四迷の『浮き雲』では、「人事(ヒトゴト)で無い。お勢も悪るかったが、文三もよろしく無かった」と、人事にわざわざ「ひとごと」のルビを振っているである。

    こう見てくると、「ひとごと」を人事と漢字で書くのは間違い、と笑っていられない。むしろ、「他人事」の表記の方が新参者だ。この辺の経緯を『明鏡国語辞典』第2版(大修館書店)は、以下のように簡潔に説明している。

       〈「他人事」は明治・大正期の文学で、「他人事(ひとごと)」のようにふり付きで書かれたものが、のちふりがなが取られ、「他人事(たにんごと)」とも読むようになった〉。

    ただ、伝統的な本来の読み方としては、「他人事」は「ひとごと」とするのが無難だろう。『岩波国語辞典』第7版や『三省堂国語辞典』 第6版など他の小型国語辞典は「たにんごと」は「『他人事』の文字読みによる俗な言い方」とか「あやまって生じたことば」としている。


《注1》 多くの辞書で見出しに「(他人)事」と表記しているのは、常用漢字表で「他人事」に「ひとごと」の読み方を載せていないため。新聞社の用語集でも、漢字は使わず「ひとごと」とひらがな書きに統一している。
《注2》 異説を出しているのは『新明解国語辞典』第7版(三省堂)。それによれば、「ひとごと」を「人事」と書くのは比較的新しい表記、との注をつけている。