袖振り合うも「多生の縁」か「他生の縁」か

(第151号、通巻171号)
    
    「天橋立」「姫路城」方面への小旅行中に何人かの方と顔見知りになった。いわゆる「袖振り合うも多生の縁」だ。三省堂新明解国語辞典』第6版の語釈を借りれば、「見も知らぬ旅人同士が同じ木の下に一時いこい宿るのも、決して偶然ではなく、この世に生まれる以前からの深いつながりによるものだ」ということである。「同じ木の下に……」といささか古風な言い回しはあるものの、辞書にしては珍しいほど丁寧にかみくだいた記述ぶりだ。
    
    この熟語をまれに「多少の縁」と思い込んでいる人がいるが、これは多少どころか完全な間違いなので論外として、やっかいなのは「多生の縁」のほかに「他生の縁」という表記が併存していることだ。
    
    「多」と書くべきか「他」とすべきか、迷ってしまうが、この問題に立ち入る前に、「〜の縁」の「〜」にあたる「多生」と「他生」の2語について調べてみよう。どちらも、出自は仏教用語と見られるので、まず『岩波仏教辞典』や『仏教語小辞典』(ちくま学芸文庫)を中心に仏教関連の資料に当たってみた。いささか煩雑になるが、その結果をまとめると――
    
    「多生」とはこの世に何度も生まれかわって多くの生をうけること、すなわち、生と死を繰り返す「輪廻転生」を指すことのようだ。これに対して「他生」の方は、「今生(こんじょう)」、つまり現世(げんせ)に対する「前世(前生)」と「来世(後生)」を意味する。
    
    素人には、同じことを表しているようにも思えるが、これに「〜の縁」がついた熟語になると、国語辞典の扱いも微妙な違いをみせる。強引に区別すれば、「多生の縁」を正統とみるか、「他生の縁」も間違いではないとするか、あるいはどちらでも可という中間派か、の3種になるが、濃淡に差がある。
    
    まず、明確に「多生の縁」を正しいと断定しているのは『ベネッセ表現読解国語辞典』。「〈他生の縁〉とも書くが、本来は誤り」と言い切っている。小学館日本国語大辞典』もまた「他生の縁」の項で「〈多生の縁〉の誤用から」としている。今回のブログの冒頭で語釈を引用した『新明解国語辞典』も「用例(袖振り合うも多生の縁)の意味で〈他生〉と書くのは俗用」としている。
    
    三省堂大辞林』は、子見出しの中で「多生」と「他生」を=で結び、同一とみなしている。岩波の『広辞苑』もほぼ同様で「〈多生〉は〈他生〉とも書く」という扱いだ。私が日常的に使っている大修館『明鏡国語辞典』もまた「〈多生〉は〈他生〉とも」としている。
    
    辞典の中には「他生」を主とするものもあるが《注》、大勢は、「多生」の方に力点を置き、本来の正統的な用法とみなしている。ちなみに、11月下旬に刊行されたばかりの『岩波国語辞典』第7版は「〈他生〉とも書く。誤解して〈多少〉とも書いた」と注記している。 
    
    では、新聞社の用字用語集ではどうか。こちらも、社によってニュアンスが多少違う。「多生」を主としている点では共通しているのだが、朝日新聞、読売新聞が「多生の縁」に統一しているのに対し、毎日新聞共同通信日本新聞協会の手引き書は「〈他生〉とも」と容認している。
    
    こんなに人口に膾炙(かいしゃ)している熟語で表記法が揺れたまま固定していないのは珍しいが、実用の上ではどちら使っても差しつかえない、と言っていいだろう。「俗用」というそしりを免れるためあえて二者択一するなら「多生の縁」を用いた方が無難だ。


《注》 小学館現代国語例解辞典』は、「袖」の項の中では「他生」をメイン扱いにして「他生(多生)の縁」としている。ところが、「多生」の項では、逆に「〈多生〉を〈他生〉とすることもある」と記述しており、同じ辞典の中で見解が分かれている。