白鷺城と「姥が石」

(第150号、通巻170号)
    前回の小旅行の続き。「天橋立」を見終えた後、バスで夜「姫路城」へ。ライトアップされた天守閣が闇の中に白くくっきり浮かび上がって見えた。「白鷺城」(「しらさぎじょう」または「はくろじょう」)の異名《注1》に似つかわしい姿だ。大手門から入ってすぐの三の丸広場から見上げると、常套句の「天高くそびえる」というよりもむしろ壮麗な気高さを感じた。
    しかし、この城も、大天守保存修理工事が本格化すると全容はしばらく見られなくなる。「昭和の大修理」と言われた1964(昭和39)年の解体復元工事から半世紀近く経過し、漆喰(しっくい)壁や屋根瓦などの傷みが目立ってきたため、今度は「平成の大修理」に取りかかったからだ。
    漆喰の塗り替え、屋根瓦の葺(ふ)き替えや耐震改修も合わせて行う予定で、総事業費は28億円と見込まれている。うち、国費が18億円、地元・姫路市の負担分が10億円という。
    標題の「姥(うば)が石」とは、市が改修工事費の一部を一般からの寄付金でまかないたいと始めた募金運動の愛称である。
    姫路城は、南北朝時代の1346年に築城されてから城主が転封などでめまぐるしく変わったが、『日本大百科全書』(小学館)によると、1580(天正8)年に羽柴(豊臣)秀吉が毛利氏との戦いの拠点として本格的に改修し、三層の天守閣を築いた。これが現在の姫路城の始まりという《注2》。この時の美談として言い伝えられてきたのが「姥が石」だ。
    城下町で餅(もち)を焼いて売っていた一人のお婆さんが、秀吉が城壁の材料の石集めに苦労していることを耳にした。そこで「せめてこれでもお役に立てば」と古くなった自分の商売道具の石臼を差し出した。これを伝え聞いた秀吉はたいそう喜び、乾(いぬい)小天守《注3》の北側の城壁に使った。この噂が広まって人々が競って石を寄進したおかげで城は順調に完成した、というのである。
    姥という語は、姥捨て山とか姥桜《注4》とか、あまりいい響きはないが、この「姥が石」には上述のようなちょっと出来すぎた話が秘められている。このエピソードにあやかって姫路市は、今年4月6日(しろの日)から「平成の『姥が石』」と名付けた「愛城募金」を始めたというわけだ。


《注1》 白鷺城の異名は、一般には城壁が白い漆喰で塗られ、鳥のシラサギを思わせるところからきたと考えられているが、ほかに、1)城の所在地の古名を「鷺山」といったところから、2)黒い壁で「烏(からす)城」の異名を持つ岡山城との対比から、3)シラサギが多く棲みついていたところから、などさまざまな説がある。また、Web百科「ウィキペディア」には、秀吉が居城し、その後、天下人になったところから「出世城」、あるいは築城後一度も戦闘をしたことがないことから「不戦の城」という別名もある、と紹介されている。
《注2》 なにをもって築城と見るか、の問題もからみ、築城の時期については諸説ある。 
《注3》 姫路城は中心をなす大天守のほかに三つの小天守を持っている。東小天守、西小天守そして乾小天守姫路市のホームページには、乾小天守の城壁に今も残る「姥が石」の写真が掲載されている。
《注4》 『大辞泉』(小学館)の「姥桜」の項には、「1. 葉が出るより先に花が開く桜の通称。ヒガンザクラ・ウバヒガンなど。葉がないことを『歯無し』に掛けた語という。2. 女盛りを過ぎても、なお美しさや色気が残っている女性」とある。なお、インターネットのAmazonで検索すると、作家の田辺聖子に『姥ざかり』や『姥ときめき』(いずれも新潮文庫)という、元気印のお婆さんを描いた作品がある。どちらの題名も著者の造語と思われるが、私は残念ながら読んでいない。