「好々爺」と「老婆心」

(第147号、通巻167号)
    正と悪。明と暗。右と左。太陽と月。老若男女……。さまざまな対義語がある。今回のブログの標題の中の文字でいえば「爺」と「婆」だ。
    プロ野球パリーグのクライマックス・シリーズが終わった翌日の25日、ある民放テレビのワイドショーで、楽天野村克也監督のボヤキを特集した。その番組の中で、著名な演出家でもあるコメンテーターの一人が、野村監督はぼやいて敵を作り、それを自分のパワーにしている、と分析、「ふつう、あの年になって敵を作らない。みんな『好々爺』になろうとするから」という趣旨の発言をした。ただ、「好々爺」にあたる部分の発音は「こうこう」ではなく「こうこうじい」だった。
    テレビ界では評論家としても知られる人の言葉だけに、ひょっとして「こうこうじい」とも発音するのか、各種辞書にあたってみたが、むろん、「好々爺」は「こうこうや」と読むのが正しい。弘法も筆の誤り。うっかり口をついて出たのだろう。意味は、「やさしくて人のよい老人」(大修館書店『明鏡国語辞典』)。『新明解国語辞典』第6版(三省堂)にはもっと具体的に「孫などをかわいがっている、やさしい一方のおじいさん」とある。
    ここでふと疑問が浮かんだ。「好々爺」は男性にしか使えない。「やさしくて人のよいおばあさん」のことは何と表現するのだろう。「好々婆」。こんな単語は見たことも聞いたこともない。国語辞典や漢和辞典を調べても、好々爺と対になる語は見つからなかった。好意的にみれば、お年を召した女性は、もともと優しく、思いやりがあって気のいい人が多いので、あえて「好々婆」などという言葉を必要としなかったのかもしれない。
    その証左というわけではないが、「老婆心」という言い回しと比べてみよう。『日本国語大辞典』第2版(小学館)には、「仏語。老婆が子や孫をいつくしむように、師が弟子をいつくしみ導く親身な心遣い。また、必要以上に世話をやこうとする気持をへりくだっていう語。老婆心切」とある。かなり昔から用いられていた語で、中世の日本語を収録した『日葡辞書』(岩波書店の邦訳版)にも収録されており、「老婆深切」《注》の項で「懇(ねんごろ)な心。深い愛情や親切。老婆心」と記述されている。
    しかし、「老爺」という語はあっても「老爺心」とは言わない。だからといって、年をとった男性に親身な心遣いがないはずはない。それを補うためか、「老婆心」の方は、「爺」、つまり男性でも日常ごく普通に使われる。
    例えば、職場で同僚に「老婆心ながら付け加えると、あの手続きの真の狙いは……」などと言う具合だ。上述の『新明解国語辞典』は「他人に忠告するときに『余計なことかもしれないが』の意を込めた前置きとして用いられる」と語の運用法を説明している。
    「好々爺」と「老婆心」。この2語は広い意味での対語といえると思う。


《注》 『邦訳 日葡(にっぽ)辞書』(原本刊行は1603年)では、「親切」(古くは「心切」)を「深切」と表記し、「深い大切。強い親愛の情と好意」と解説している。また、現行の『新明解国語辞典』にも、表記の欄に「深切、とも書く」とある。