「お手数」の読み方は「おてすう」か「おてかず」か 

(第135号、通巻155号)
    手間をかける、という。ほぼ同じ意味で「手数をかける」という言い回しがある。例えば、友人が自分のために労力・時間をかけてくれた時に「お手数をかけてすみません」と感謝の意を表したり、相手に手間をとらせるようなことを依頼する時に「お手数ですが、メモのご用意をお願いします」と言うように前置きの言葉としても使われる表現だ。この「お手数」、ふだん口にする時は何と発音するか。
    始めから「てすう」あるいは「てかず」のどちらか一方だけしかインプットされていない人は、迷うも迷わないもないが、いろいろ「雑音」を混じえて覚えている人にとっては、改まって問われるとハタと考えてしまうに違いない。
    迷ったらまず、辞書だ。規範意識が高いとみなされている『岩波国語辞典』(第5版)で「てかず」を引くと「てすう、を参照せよ」の指示。で、「てすう」の項を開くと、まず「てかず」と言い換えを示した後に、手間がかかること、めんどうなこと、と語釈を述べ、「お手数をかけて済みません」の用例を載せている。『明鏡国語辞典』(大修館書店)や『新明解国語辞典』第6版(三省堂)は「てかず」も立項してはいるものの、「てすう」の方に多くの行を費やしている。
    しかも、「てすう」は、夏目漱石の『吾輩は猫である』『道草』や坪内逍遥の『当世書生気質』、あるいは樋口一葉の『にごりえ』でも使われている。『道草』の場合はこんな具合だ。「何(ど)うも御手数(テスウ)でした、ありがたう」。こう並べてみると、「てすう」と読むのが正しい、と思われるだろう。だが、しかし……
    日本初の近代的な国語辞典でその後の辞書の母体ともなった『言海』《注1》では、「てかず」を主見出しに立て、「てすう」の項には「手数(テカズ)ニ同ジ」としているのである。相前後して発行されたわが国初の和英辞典、J.Cヘボンの『和英語林集成』も「Tekazu(テカズ)」に10行ものスペースを割いて説明しているが、「Tesu(テスウ)」の項には「Same as tekazu(テカズに同じ)」と、『言海』とまったく同様の扱い。つまり、「てかず」を主たる読み方とみなしている。
    さらに、『日本国語大辞典』第2版(小学館)によれば、古くは鎌倉時代中期の『為忠集』や15世紀の世阿弥風姿花伝』にも「てかず」の読みが残っている。こうしてみると、歴史的には「訓+訓」読みの「てかず」の方が先に生まれたといえる。が、いつの間にか、「訓+音」の湯桶読みも普及し、少なくとも明治時代には二つの読み方が併存するようになったと思われる。
    現に、漱石は『道草』の別の個所では「てかず」とも使っている《注2》。森鴎外の『山椒大夫』の中も「これはどうもお手数(てかず)でございました」と書かれている例がある。これほど長い間、二つの読みが「正用」として続いている言葉は珍しいのではあるまいか。たいていは、片方に「誤用」とか「俗」とかのレッテルが張られるものだ。私自身は「おてすう」と言うことが多いが、「おてかずをおかけして」の方がかしこまって品がある感じがする。
    なお、「てかず」には、囲碁や将棋の打つ手または指す手の回数、ボクシングでのパンチの数や音楽で音符の多い曲を指す意味もある。「手数入り」と書けば読み方は「でずいり」となり、横綱の土俵入りの意味になる。


《注1》 『言海』の原本は4分冊からなり、第4冊が刊行されて完成したのは明治24年(1891年)だが、今回のブログで引用したのは明治37年2月25日発行の一冊本の縮刷版である。
《注2》 明治時代の文豪、中でも漱石は当て字が多い上に、ルビも著者が原稿用紙に自分でふったものなのか、編集者が付け足したものなのか、はっきりしないケースも多い。