「とどのつまり」完璧な辞書はない

(第70号、通巻90号)
    辞書のことを「たかが字引」、どれも似たようなものと思い込んでいる人もいようが、「されど字引」である。それぞれに個性がある。前回のブログ「4月は残酷な月」で紹介したように、辞書の個性は、語の定義、語釈だけでなく、用例文や注記・語誌の類の説明にも表れる。

    例えば、「大人」という語。『明鏡国語辞典』(大修館書店)には「成人した人、一人前に成長した人」と「思慮、分別があるさま」の二つの語義が載っている。この限りでは今さら字引に当たるまでもない自明の内容だが、『新明解国語辞典』第6版(三省堂)になると、さらに付け加えて「自分の置かれている立場の自覚や自活能力を持ち、社会の裏表も少しずつ分かりかけて来た意味で言う」と人生訓的ニュアンスの注付き。文例に「彼は年の割に大人だ」とくれば、いたずらに馬齢を重ねて来ただけの身としては思わず襟をただされるような気持ちになる。

    もう一つ、「動物園」の語釈を見てみよう。『広辞苑』第6版(岩波書店)は「各種の動物を集め飼育して一般の観覧に供する施設」ときわめて簡明に記している。法律の条文のような記述で味も素っ気もないが、辞書の語義としてはとくに問題があるわけではない。しかし、「捕らえて来た動物を、人工的環境と規則的な給餌により野生から遊離し、動く標本として都人士《注1》に見せる、啓蒙を兼ねた娯楽施設」という『新明解国語辞典』の主観的で文明批評的な語釈と比べると、あまりの違いに驚くのではあるまいか。

    むろん、辞書の記述だからといっていつも堅苦しいわけではない。「洒落」(しゃれ)という言葉を例に引くと『岩波国語辞典』(第5版)は、「(言葉の同音を利用して)人を笑わせる、気の利いた文句。例、『へたな洒落はやめなしゃれ』の最後の部分が『なされ』とかけてある類」と説明し、あえて?下手な洒落の実例を引き合いに出している。

    お堅いイメージのある岩波書店の辞典にしては珍しく遊んでいる感じもするが、個性的なことでは比類のない例の『新明解国語辞典』はどうかというと、「(その場の思いつきとして)類音の語に引っかけて、ちょっとした冗談や機知によってその場の雰囲気を和らげたり、盛り上げたりする言語遊戯。例、潮干狩りに行ったがたいして収穫がなく、『行った甲斐(=貝)がなかったよ』と言うなど」という具合で、洒落のレベルでは『岩波国語辞典』より一枚上手(うわて)のようだ。

    とどのつまり、辞書は十人十色ならぬ「十書十色」、それぞれに特色があり、万人に向く完璧なものはないのだ。

    ちなみに、「結局」とか「あげくの果て」を意味する「とどのつまり」という語は、多くの場合「平凡な結果、もしくは思わしくない結果や否定的表現を伴う」使い方をする。その点にまで踏み込んで注記するのが辞書の大切な役割のはずだが、「とど」の語源については言及しているものの《注2》、語法にも触れている辞書は多いとは言えない。


《注1》 「都人士」(とじんし)とは聞き慣れない言葉だが、『新明解国語辞典』には、「(生活の便利さを享受する一方、自然に接する機会に恵まれない)都市居住者」とある。これもまた、単なる辞典の語釈とは思えない記述だ。

《注2》 「とどのつまり」という語は、『日本語源大辞典』(小学館)などによると、魚のボラが幼魚の時からハク、オボコ、スバシリ、イナ、ボラなどと順次名前を変え、最後にトドと言われることから「結局、せんじつめていった最後のところ」という意味になった、というのが通説。要は出世魚だが、ブリなどほかの出世魚と比べ味がおちるという見方もあり、出世してもたいしたものにならない、期待するような結果にならない、というニュアンスが生まれたのかもしれない。ただし、ボラの卵巣を塩漬けにして乾燥させた「カラスミ」は酒肴としては絶品。

【お断り】今回は「gooブログ」時代の2006年10月20日号の内容を大幅に書き換えたものですが、一部の記述はそのまま転用しています。