「暮れなずむ」の‘双子’ならぬ‘双語’「暮れかぬる」

(第122号、通巻142号)
    前回のブログで「暮れ泥(なず)む」を取り上げた際、筆を滑らせて「季語は春」と言い切りながら、その直後に「注」で「疑問が生じてきた」と書き加えた。マッチポンプのようでお恥ずかしい限りだが、当ブログの愛読者の方から「暮れ泥(なず)む。/歳時記には『暮れかぬる』というのがありました」とのお知らせをいただいた。
    「暮れかぬる」とは初めて目にする言葉だ。さっそく、季語辞典や季寄せ、歳時記の類はもちろんのこと、辞書にもあたってみた。国語辞典では『大辞林』や『広辞苑』クラスにも載っていなかったが、俳句関係の一部の本に「暮れかぬ」と文語体で「季語」として認知しているのがあった。その一冊、『吟行・句会必携』(角川書店編)では、「自然」の項の「夕」《注1》に「奥の間の長居の僧の暮れかぬる」(伊東泰子)という例句が添えられている。
    『日本国語大辞典』第2版(小学館)によれば、「暮兼(くれかぬ)」は、「暮れそうでなかなか暮れない。春の日あしの長いのにいう。季語・春」とある。この語を分解すると、「暮れ」プラス「かぬる」になる。「かぬる」は口語の「兼ねる」と同じで、『広辞苑』第6版には「他の動詞の連用形に付いて、躊躇(ちゅうちょ)・不可能・困難などの意を表す。…することができない。…することがむずかしい」の意と出ている。「ご要望には残念ながら応じかねます」「見るに見かねて手伝う」と同じ用法だ。英語なら‘can not’より‘difficult’の方のニュアンスに近いか。 
    つまり、「暮れかぬる」は前号で扱った「暮れ泥(なず)む」とほとんど同じ意味の言葉だ。まるで双子、いや‘双語’のような感じさえする。にもかかわらず、「暮れ泥(なず)む」の方は、私が季語について20種近い本を調べた(立ち読みも含め)限りでは「季語」として扱っているものは1冊もなかった。
    季語に認められていないことは、以下の例句からもうかがわれる。前述の『吟行・句会必携』に収められた「暮れなづむ桃の畑の猫の鈴(西宮陽子)」や、ウェブサイト「黄色い熊(個人別全句)」《注2》で見た「「灯(ひ)点(とも)してなお暮れ泥(なず)む五月かな(子蟹)」、「暮れなずむ高速道や冴返る(瞳子)」など。いずれにも「桃」「五月」「冴え返る」《注3》というまぎれのない、あるいは伝統的な季語が入っている。「暮れなづむ」を季語とすれば、「季重なり(季重ね)」は御法度、という俳句の根本原則に反することになってしまうからである。
    しかし、個人的にはすっきりしない。「暮れかぬる」が季語なのに、意味もニュアンスもほぼ同じ「暮れなづむ」の方はなぜ季語として認められていないのか。
    ただ、季語といっても万人が認める確立した言葉というわけではないようだ。季題ということもあるし、中核的な基本季語と‘準季語’とでもいうべき「傍題」に分類する考えもある《注4》。俳句の世界の流派、団体によっても違う。万葉の時代の和歌の世界から引き継がれ、連歌を経てきた古いものもあれば、ナイターなど戦後生まれの季語もある。
    新しい季語は今も誕生している。随筆家で俳人江國滋氏は『俳句とあそぶ法』(朝日新聞社)の著書の中で「勝手に新しい季題なんか作っていいものか。いいのである。芭蕉もそのようなことを言っている」という趣旨のことを書いている。ならば、目くじらをたてるほどのこともあるまい、と自らを納得させた。


《注1》 「暮れ泥む」も「夕」の関連語彙表の中には収められているが、季語の印しはない。
《注2》 ウェブサイト「黄色い熊(個人別全句)」(http://www.asahi-net.or.jp/~jc1y-ishr/hoheto/Kojinbetsu2005.html
《注3》 「冴返(さえかえ)る」とはふだん見かけない言葉だが、『ハンディ版 入門歳時記』(角川書店俳句文学館編)によると、春の季語で「いったん暖かくなりかけてからまた寒さが戻ってくるのをいう」。
《注4》 「暮れかぬる」は「遅日(ちじつ)」という春の季語の傍題。
《参考》 『日本語百科大事典』(大修館書店)、文春文庫『ことばの歳時記』(山本健吉著)など