イ・ムジチ演奏の「赤とんぼ」を聴いて

(第248号、通巻268号)

    先だっての日曜日、横浜みなとみらいホールで結成60周年ツアーと銘打って来日中のイ・ムジチ合奏団のコンサートを聴いた。イ・ムジチと言えばビバルディの「四季」が定番中の定番の曲目。相変わらず流麗な演奏を披露してくれた。プログラムは他にモーツアルトアイネ・クライネ・ナハトムジーク交響曲第40番。クラシック音楽の中でも広く親しまれている曲だが、実を言うと、この日のコンサートで私が一番感銘を受けたのはアンコール曲の「赤とんぼ」だった。

    山田耕筰の原曲を「イ・ムジチの為に」アレンジした編曲者の能力の高さと感性のするどさもさることながら、イ・ムジチは、三木露風《注1》が母のいない寂しい幼少時代を追憶して作詞した心象風景を情感豊かに弦楽器で表現した。とりわけ、イ・ムジチの新しいリーダー、アントニオ・アンセルミがソロで弾いた高音部の個所は、バイオリンの音色が切ないほど細く、それでいて響きを失わず伸びやか。キリストを思わせる風貌と相まって心が洗われるような出色の演奏だった。

    しかし、このブログは「音楽郎」ではなく「言語郎」である。「赤とんぼ」の歌詞に焦点を移し、いくつかある歌詞の謎を紹介しよう。歌は4番からなるが、ここでは1番と3番を取り上げる。
         
         1)夕焼け小焼けの赤とんぼ
           負われて見たのは いつの日か
         
         3)十五で姐(ねえ)は嫁にゆき
           お里のたよりも 絶えはてた

    まず、1番の出だし。夕焼けは分かるが、「小焼け」とはなにか。何気なく口ずさんできたが、「小焼け」とはふだん用いない。はてな?と考えあぐねて『日本国語大辞典』第2版(小学館)で調べたら、
  〈(「こやけ」は、語調を整えるために添えたもの)「ゆうやけ(夕焼)」に同じ〉とあった。加えて、北原白秋の童謡「お祭」の「真赤だ、真赤だ。夕焼小焼(ユウヤケコヤケ)だ」という歌詞と、中村雨紅の童謡「夕焼小焼」の「夕焼小焼(ユウヤケコヤケ)で 日が暮れて」の歌詞が文例として挙げられていた。とくに後者は、誰もが歌ったことのある童謡だろう。

    日本語の詩歌の基本となる音数律から言えば、「ゆうやけ」+「こやけ」で7音。続く「あかとんぼ」の5音を加えると七五調となる《注2》。日本語の韻を踏んで歌いやすくした、という解説もなるほどと思わせる。しかし、この説とは別の興味深い解釈もある。

    小焼けの「こ」は「ちょっと」の意だという。たとえば、「こしゃくな」、「こ粋」、「こ憎らしい」などの「こ」は、語幹を弱める接頭辞の役割をはたしているというのだ。「ちょっぴりしゃくな」、「ちょいと粋な」、「ちょっとばかり憎らしい」といったように可愛らしさを込めた感じもする。
    
    また、日没後にもう一度だけ一瞬赤く光ることを指す、という説もある。以下は「人力検索はてな」《注3》からの孫引きだが、「太陽が沈んで10分〜15分すると、もう1回空が赤くなる。これを小焼けと言う。夕焼けと小焼けは違う。その小焼けのときにならなければツバメはやってこない。だから夕焼けのときに行ってもツバメは1羽もいない。しかし、小焼けになったときに行くとツバメがわっと集まってくる」という。原典にあたっていないので、なぜ唐突にツバメが出てくるのか分からないが、ともかく夕焼けは「大」と「小」の2回ある、ということか。

    そう言えばかつて北海道に勤務していた頃、知床の海岸からオホーツク海に沈む雄大な夕日を見たことがあるが、太陽が水平線に隠れた直後に一瞬、西の空が再び赤く染まったような記憶が残っている。

    「赤とんぼ」の歌詞には他にも、「姐や」は誰か、「十五」は誰の年齢か、「お里」は何処(どこ)を指すのか、などについて諸説がある。「たかが赤とんぼ、されど赤とんぼ」である。奥は深い。この続きは次回に。

   
《注1》 三木露風は5歳の時に両親が離婚したため母親と離れて育てられた。詩は30代の始め、函館郊外の渡島当別にあるトラピスト修道院で国語の講師をしていたころ、幼少時代の故郷の思い出に母への思慕の念を重ね合わせて作ったといわれる。
《注2》 「夕焼け小焼け」と「赤とんぼ」の間に助詞の「の」が入るので、俳句風にいえば字余りだが、そうであっても語調はいい。
《注3》 「人力検索はてな」のURL(http://q.hatena.ne.jp/1063965340