「暮れなずむ」と「つるべ落とし」

(第121号、通巻141号)
    4月ももう終わりだが、日の暮れるのがずいぶん長くなった感じがする。ほんの2カ月ほど前までは、仕事を終えて勤め先を出る時には外はもう暗くなっていたものだが、今は、6時を過ぎてもまだ明るい。夕日が沈んだ後もしばらくは暮れそうでいてなかなか暮れない。まさに「暮れなずむ春の空」である。
    暮れなずむ、といえば、往年の人気テレビドラマ「3年B組金八先生」の主題歌「贈る言葉」を思い出す人が多いに違いない。歌い出しのフレーズが「暮れなずむ町の 光と影の中 去りゆくあなたへ 贈る言葉……」だ。この言葉が広く知られるようになったのは武田鉄矢海援隊のヒットがきっかけだろう。そのせいか、「暮れなずむ」という言葉は作詞者の武田鉄矢の造語、と勘違いする向きもあるが、少なくとも彼の生まれる前からある言葉だ《注1》。ともかく、情趣に富んだ美しい響きのする日本語の一つである。
    語感が似ているので、漢字で「暮れ馴染(なじ)む」と書くのかと誤解されることもあるが、「なじむ」ではない。「なずむ」だ。時に「なづむ」とも表記する。あえて漢字で書けば「泥む」となる。イメージにそぐわないが、土、泥の「どろ」という字だ。
    「泥(なず)む」とは、『岩波古語辞典』など二、三の古語辞典を参考にして考えると、泥や水、雪などに阻まれて思うように前へ進めない、というのが元々の意味のようだ。そこから「(動詞の連用形に付いて複合動詞を作る)はかばかしく進まない。とどこおる」(『明鏡国語辞典』大修館書店)の意に使われるようなったものと思われる。
    以上のことをまとめると、「暮れ泥む」は「暮れようとするが、なかなか前(暮れること=夜の闇)に進めない」、つまり、日が暮れかかってからすっかり暗くなるまで時間がかかる状態、を示す。季語は春である《注2》。
    だから、「暮れなずむのが早い」とか「もうすっかり暮れなずんでいる」とかの表現は本来の意味からすれば適切でないことになる。時々、秋の夕日に用いる人もいるが季語の上でも本来の意味から言っても間違いだ。
    秋の夕日には、「暮れなずむ」の反対語というべき「つるべ(釣瓶)落とし」を使うのが慣用的用法だ。釣瓶とは、井戸の水を汲み上げるのにつかう桶のこと。井戸は今ではほとんど見なくなったので、若い世代では実物を目にしたことのある人は少ないだろうが、釣瓶は井戸の中に下ろすと底の暗い水面に向かってまっすぐに早く落ちる。秋の日も、釣瓶が落ちるように沈むのが早い。その釣瓶を秋の落日に例えて「秋の日は釣瓶落とし」という言い方が生まれた。


《注1》 『日本国語大辞典』第2版(小学館)には、1926年に書かれた文学作品からの用例が掲載されている。
《注2》 何冊もの国語辞典がそろって「暮れなずむ春の日or春の空」を例文に挙げているので、春の季語、と頭から思いこみ、それを前提に「秋の夕日に使うのは間違い」と断定的に書いたが、ブログ発信後少し気になって調べ直してみた。確かに「暮れなずむ」は春との結びつきが強い言葉ではあるものの、それをもって即「季語」扱いできるのか、私自身に疑問が生じてきた。取りあえず、今回のブログは最初の原文のままにしておくが、さらに文献などに当たったうえで改めて報告したい。