「杉原」を「すいはら」と言う「名目(みょうもく)読み」とは

(第109号、通巻129号)
    ここ2、3週間、漢字の読み方をテーマにしたブログを書いてきたが、その過程で「名目読み」なる用語と出合った。「めいもく」ではなく「みょうもく」と読む。何冊かの辞書、参考書類を見ると、決まって漱石の『吾輩は猫である』からの一節が引用されている。
  「杉原(すぎはら)と書いて、‘すい原’と読むのさ」
  「妙ですね」
  「なに妙な事があるものか。名目(みょうもく)読みと云って昔からある事さ。蚯蚓(きゅういん)を和名(わみょう)で‘みゝず’と云ふ。あれは‘目見ず’の名目よみで。蝦蟇(がま)のことを‘かいる’と云ふのと同じ事さ」
  「へえ、驚いたな」
  「蝦蟇を打ち殺すと仰向きに‘かへる’。それを名目読みに‘かいる’と云ふ。透垣(すきがき)を‘すい垣’、茎立を‘くゝ立’、皆同じ事だ(以下略)」 《注1》
    そもそも「名目読み」とは何のことか。小型の国語辞典の中には載っていないものもあるので、一般的な用語とは言えないと思われるが、「老人語」なるカテゴリーを編み出した『新明解国語辞典』 (三省堂)は、さすがというべきか、少なくとも第2版から収容している《注2》。それには「有職(ゆうそく)関係の熟語の特別な読み方。例。『定考』を『こうじょう』と読むなど」とある。また、『大辞林』第3版(三省堂)によれば、「漢字の、習慣などによる特別な読み方。故実読み」という。
    いずれにしろ、特殊な読み方であり、言葉自体ふだん見慣れないものがほとんど。その中で分かりやすいのは、北海道にある「支笏湖」の「笏」ぐらいのものだろう。
    「笏」の名目読みは、「しゃく」。『明鏡国語辞典』(大修館書店)などいくつかの辞書の説明を総合すると、「笏」とは、神官などが手に持つ細長い儀礼用の板のことを指す。その昔は、束帯などを着る時などに細長い板の裏に式次第などを書いた紙を張って備忘用にしていたが、しだいに儀礼的な用具と化した。しかし、「笏」の字音「こつ」が「骨」に通じるのを嫌い、板の長さが1尺ほどであるところから「尺」の音を借りたものといわれる。
    また、「定考」は、今風に言えば、平安時代の官吏の査定のことのようだ。「こうじょう」と逆から読むのは、「上皇(じょうこう)」との同音を避けた慣例という。
    他にも「名目読み」の例として「横笛」を「ようでい」、「即位」を「しょくい」、「還昇」を「かんじょ」などの語を挙げている辞書がある。しかし、どれもごく限られた世界に伝わる習慣から来ていると思われる。その点では、これまで取り上げた誤用、誤読とは違い、いわば業界用語の類だろう。
    それにしても、杉原の「杉」をどうして「すい」と読むのかは分からなかったが、『日本国語大辞典』第2版(小学館)を引いてみて言葉の来歴はようやく知ることができた。鎌倉時代に今の兵庫県にあった杉原村の特産の紙を「杉原紙(すぎはらがみ)」と言っていたのが変化して「すいはら(または、すいばら)紙」になったという。漢和辞典に載っていない《注3》からといって、そんな読み方はないと速断するのは禁物だ。日本語の森は実に奥が深い。


《注1》 『夏目漱石集』(河出書房、「現代文豪名作全集5」)から。「透垣」は、間を透かして作った竹垣や板垣、の意。「茎立」は「くきたち」ではなく「くくたち」と読む。菘(すずな)の別名で春の七草の一つ。
《注2》 第2版では「みょうもく」を「『めいもく』の老人語」と規定していたが、第6版では「古風な表現」と変えている。
《注3》 『字通』(平凡社)には、「杉」という漢字の読みとしては「サン」と「すぎ」しか掲載されておらず、「すい」はない。
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