「老人語」余聞……高年、高齢、老齢、老人 

(第108号、通巻128号)
    社会の高齢化が進んで「老人」という語に敏感に反応する人が多くなったせいなのか、先週のテーマ「老人語」もまた予想を上回る大きな反響があった《注》。
    前回も紹介したように、「老人語」とは『新明解国語辞典』第6版(三省堂) の手になる独創で「すでに多くの人の常用語彙の中には無いが、高年の人には用いられており……」と定義されている。今回は「老人語」の周辺を、他の辞書はさておき『新明解国語辞典』がどう説明しているのかちょっとだけ探索してみたい。
    まず、この語の核である「老人」について「新明解」がどう説明しているかというと――
    第6版:「すでに若さを失った人。たくましさは無くなったが、思慮、経験に富む点で社会的に重んじられるものとされる。(元気な人は70歳を過ぎても老人と目されないことが有る。老人福祉法では65歳以上が対象)」。始めに下げ、続いて上げて、最後はニュートラルに、となかなか巧妙な記述ぶりである。
    第2版:「人生の盛りを過ぎ、精神的にも肉体的にもかつてのたくましさの無くなった人」。上げるでも下げるでもないが、マイナス的な印象の強い書き方だ。
    では、次に「高年」とはどのような意味で用いているのだろうか。第6版は「どんな点から見ても若いとは言えない年齢」と定義し、「老年の婉曲的な表現」と注を付けている。第2版は冒頭の部分が「だれが見ても……」となっている点だけが違う。長年勤めた会社を定年でリタイアし、現在、第二の職場で働く私の場合、確かに若いとは言えない年齢と自覚はしていても、「どんな点から(だれが)見ても」と“完全否定”されると抵抗を覚える。
    類語の「高齢」を引くと、第2版では「年をとり第一線を退いて(から年久しく)人生を静かに観望する状態にあること」と“達観”に重点を置いているが、最新の第6版では「高年のため、人生経験は豊かである反面、体力・気力の衰えを意識せざるを得ない状態にあること」と語義を全面的に書き変えた。引退する人ばかりでなく、なお「第一線」にいる人のことも意識した内容とも言える。
    若さへの羨望の故か、ショックを受けたのは、「老齢」の語釈である。第6版、第2版ともそろって「年をとり過ぎていること」とあるのだ。「年をとっている」というのはその通りだが、「とり過ぎている」とは言い過ぎではあるまいか。その上、関連語として「老齢艦」を挙げ、「老朽して役に立たなくなった軍艦」とまで書いているのを読むと、とても“達観”はできない。そう感じること自体が、私自身「すでに若さを失った人」の証左なのかもしれない。


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