「消耗」の読みは「しょうこう」か「しょうもう」か

(第94号、通巻114号)
    前号で「ちょっと」という単語を題材に日本語を学ぶ外国人にはなかなか理解しにくい言葉の多義性について述べたが、意味はともかく漢字の読み方については日本人にとってもかなりやっかいなものがある。中には、誤読や慣用読みがいつの間にか一般化し、ほとんど大多数の人が本来の「標準語」と思いこんでいる言葉も少なくない。
    その中から日常よく使われる代表的な言葉を仮に「三大慣用読み」と名付けて独断で選んでみよう。
    まず、標題に挙げた「消耗」。体力を消耗する、機械の消耗(傷み)が少ない、消耗品、など「使ってその分だけ減ること」の意で使われる。読み方は、あえて言うまでもなく「しょうもう」というのがふつうだろう。もちろん、私もそう発音している。ところが、国語辞書にはどれもそろって「『しょうこう』の慣用読みが定着したもの」(大修館書店『明鏡国語辞典』)、「もと正音セウカウ(しょうこう)の誤読に基づく」(三省堂新明解国語辞典』)とあるのだ。
    「しょうこう」という読みがあることは知識として知ってはいたが、「消耗」以外に「耗」を「こう」と読む他の例は思いつかず、国語辞典や漢字辞典を手当たり次第に引いてみた。そんな最中に、連れ合いが「心神耗弱」の「こう」と「消耗」の「こう」が同じではないか、とつぶやいた。念のため、すぐ辞書にあたってみたところ「ご名答」だった。『岩波漢語辞典』の「耗弱」(しんしんこうじゃく)の項には、「機能がすり減って弱くなる」の意に「心神耗弱」の熟語が添えられていた。
    「消耗」では、旁(つくり)の「毛」にひきずられて「もう」という読みが広まったが、「耗弱」を「もうじゃく」と言う人はいまい。こちらは、本来の読みが引き継がれたわけだ。
    意外な読み方の語に「捏造」がある。証拠を捏造する、というように誰しもが「ねつぞう」と読むだろう。しかし、この熟語の本来の正しい読みは「でつぞう」だというのである。これには驚いた。
    確かに白川静の名著『字通』(平凡社)には「捏」について「声符は旁のデツ」《注1》と明記されている。そう言えば「でっち上げ」を「捏ちあげ」と表記することもある。『新潮日本語漢字辞典』によれば、呉音では「ネツ、ネチ」といい、漢音での読みが「デツ」としている。そして同辞典は「捏造」に「でつぞう」とルビをふった夏目漱石の作品の一節《注2》を挙げている。
    「三大慣用読み」の最後に「稟議」を挙げよう。「会議を開かず、関係者に案を回して承認を求めること」を意味する「りんぎ」だが、『三省堂国語辞典』、『岩波国語辞典』などほとんどの辞書には、「『ひんぎ』の慣用読み」と注記してある。しかし、上述の3語とも広く一般に通用しているのは「慣用読み」の方である。
    というより辞書ですら、慣用読みを事実上「正用」扱いしている。一例を示せば、『現代国語例解辞典』第4版(小学館)は「りんぎ 稟議」の項で「『ひんぎ 』の慣用読み」と注記しながら、「ひんぎ」は立項もしていない、つまり見出しとして挙げていないのである《注3》。「○○の慣用読み」というなら「○○」がいわば本家本元だ。そうであれば本家の項にこそ詳しく記すのが常識であるまいか。辞書の記述の方法に首をかしげざるをえない。


《注1》 『字通』には、「日」の下に「土」が付いた旁を具体的に書いているが、ワープロソフトでは出ない字なので、このブログではやむなく「旁」とした。

《注2》 『吾輩は猫である』からの引用。「人間の定義を云ふと外に何にもない。只入らざる事を捏造(でつぞう)して自らを苦しんで居る者だと云へば、夫れで充分だ」

《注2の注》 インターネット電子図書館青空文庫」で単語検索したところによれば、『吾輩は猫である』には「捏造」の語を使ったところが3個所ある。そのうち上記の個所のルビは「ねつぞう」となっているが、別の「神は人間の苦しまぎれに捏造せる土偶のみ」という個所では「でつぞう」のルビがふられている。

《注3》 他の辞書も扱い方は大同小異だ。たとえば「消耗」について「しょうこう、の慣用読み」と注をつけている『明鏡国語辞典』では「しょうこう 消耗」は空見出しで「しょうもう、を見よ」としており、「ねつぞう 捏造」の項で語義を詳述したしながら「でつぞう、の慣用読み」とした『岩波国語辞典』には“本家”であるはずの「でつぞう」という見出しそのものが掲載されていない。