『ビルマの竪琴』と言えば「埴生の宿」

(第103号、通巻123号)
    19日付けの東京新聞朝刊の訃報欄に「中村一雄氏」という名前が載っていた。見出しなしの扱いなので名前だけではどんな人なのか分からなかったが、短い記事の後半に「ビルマの竪琴の主人公・水島上等兵のモデル」とあった。1日遅れの20日付け朝刊で朝日新聞が「『ビルマの竪琴』水島上等兵のモデルが死去」の見出しで報じた。こちらは単なる訃報ではなく一般記事扱いで内容も詳しく、写真付きだった《注1》。
    竹山道雄の名作『ビルマの竪琴』は、私にとっては単なる童話でも子ども向けの小説でもない。ある意味では、将来の道筋を啓示してくれた最初の記念すべき本である。読書の魅力に目覚めたのも、戦争の悲惨さを学んだのも、この本がきっかけだった。小学4年生か5年生の頃だろう。いずれにしろテレビもゲーム機もない時代である。読書がなによりの楽しみでもあった。
    とりわけ『ビルマの竪琴』は、子供心にも感動を覚えたのか、何回も何回も読んだものだった。時には声に出して読み、感動的なシーンはいつの間にかそらんじられるほどになった。その本の中で気になったのが水島上等兵の伴奏で部隊が合唱する「埴生の宿」《注2》という曲名だった。どんなメロディーなのか、歌詞はどんな意味なのか。    
    疑問は中学校に入って解けた。音楽の教科書に取り上げられていたからだ。「ドーミーファ・ファ・ソ・ソーミ・ソーファーミ・ファーレードー」。音符を一つ一つ見ながら口ずさんでみた。聞いたことのあるような曲だったが、メロディーに自信はなかった。入学3カ月目、音楽の授業で先生がピアノを弾いた。でたらめにハミングしていたあの曲だった。
    しかし、「埴生の宿」が何を指すのかは先生も教えてくれない。歌詞にしても「玉のよそひ、うらやまじ」などいう部分は分からぬままだった。後になって「埴」は日本史に登場する「埴輪」の「はに」と見当はついたが、さて「埴生の宿」となると――。
    辞書によると、「埴」は、きめの細かい黄赤色の粘土のこと《注3》。「生」は、「ふ」という読みで「産する所」と解釈できる。したがって「埴生」の文字通りの意味は「粘土を産する場所」となる。埴生という語は、苗字《注4》や地名のほかには「埴生の宿(または、埴生の小屋)」以外で使われることはまずない。
    「埴生の宿」とは、土の上にむしろなどを敷いただけの粗末な小屋、あるいは泥で作ったようなみすぼらしい家、という意味である。転じて自分の家をへりくだって表現するのにも使われる。唱歌「われは海の子」の一節「煙たなびく苫屋(とまや)こそ 我が懐かしき住家(すみか)なれ」の「苫屋」にあたる言葉だ。
    「埴生の宿」という題の音楽は英国の作曲家の作品で、原題を‘Home, Sweet Home’(楽しきわが家)という。この題を、里見義(ただし)という明治時代の作詞家が「埴生の宿」と意訳し、歌詞も美しい文語体で訳したのである《注5》。
「埴生の宿も わが宿。玉の装ひ 羨やまじ」(貧しい、そまつな造りでもわが家にすぐるものはない。王宮のような立派な家などうらやましくない)。
    このところのニュースは来る日も来る日も、不況の暗い話ばかり続く。底の見えない経済不況でリストラされ、正月を前に「仮の宿」からも追い立てられている人々が後を絶たない。現代の「埴生の宿」は、今や緊急の切実な問題になっている。


《注1》 毎日新聞、読売新聞は20日付けの夕刊で詳報した。なお、ビルマの現在の国名はミャンマー
《注2》 新潮文庫で読み返してみたところ、原文では『はにゅうの宿』とひらがな書きになっていた。
《注3》 『大辞林』第2版(三省堂)、『新潮日本語漢字辞典』
《注4》 『新潮日本語漢字辞典』によれば「埴」は平成16年9月に人名漢字に追加された。
《注5》 里見義。文政7年(1824年)生まれ。明治10年代に唱歌の作詞、訳詞を多数手がける。「庭の千草」もその一つ。