八百長相撲は明治の昔から

(第213号、通巻233号)
    八百長で大揺れの大相撲。存亡の危機にあるといっても過言ではない。日本相撲協会の放駒理事長は2日の記者会見で「思っても見なかったこと。過去には一切なかったことであり、新たな問題であると認識している」と、力士の携帯電話のメール交信記録の“物的証拠”から浮かび上がった八百長行為について、「八百長は過去にはなかった」と強調したが、その言葉を心から信じる人はほとんどいまい。
    大相撲の八百長問題は30年以上前から週刊誌でたびたび取り上げられてきた。単なるうわさや伝聞だけでなく、元力士が実名で証言したこともあった。しかし、そのたびに協会側は否定し、悪弊を糊塗(こと)し続けてきた。しかし、今回は、八百長を裏付ける、生々しい通話記録が残っており、協会は、問題をうっちゃろうにもうっちゃりきれなかった。 
    実は、八百長という語そのものが、もともと相撲に由来する言葉なのだ。現行の国語辞書、語源辞典はそろって同じような説明を記している。代表格として『日本国語大辞典』第2版(小学館)の記述を引いてみよう。
    「八百屋の長兵衛、通称八百長という人がある相撲の年寄とよく碁をうち、勝てる腕前を持ちながら、巧みにあしらって常に一勝一敗になるように手加減したところからという」《注1》。
    また、岩波書店の『広辞苑』第6版には、「明治初年、通称八百長という八百屋が、相撲の年寄某との碁の手合せで、常に1勝1敗になるようにあしらっていたことに起こるという」とある。語義は言うまでもなく、「勝負事などで、表面は真剣に争っているように見せかけながら、あらかじめ示し合わせておいたとおりに勝負をつけること」(大修館書店、『明鏡国語辞典』)で、なれあい試合を指す。
    二松学舎大学大東文化大学の教授を務めた国文学の大家・萩谷朴氏は『語源の快楽』(新潮文庫)と題する著書の中で、八百長という語が明治期から使われていた例証として、1910年(明治43年)1月28日付けの『報知新聞』の記事を詳しく引用している。「一月場所に於いて看過すべからざるは八百長の少からざりし事を筆頭とす。(中略)斯道の絶愛者板垣伯《注2》は積年の力瘤一時に抜けし如くも八百長相撲に落胆し」と書き出された記事は、今から見ると簡単には読むことができない文体だが、私なりに“超訳”すると、次のように続く。
    板垣伯は、最も弟子の多い友綱という横綱の相撲部屋に自ら赴き、力士たちに「相撲は普通の興業物でなく、武士道を模範とすべきものだ」と訓示。「土俵での勝負は神聖に決すべきであり、いやしくも情実に流れて見苦しいことはしてはならない」など3項目を誓約させ、署名・捺印させた。
    その上で記事は「各力士は今後、互いに戒め、断じて八百長相撲を取らない、と言明することが相撲道の為である」と結んでいる。
    この明治の新聞報道から101年経つというのに、明治の頃よりはるかに「見苦しいこと」が、次から次へと明るみに出てきている。放駒理事長が「八百長は過去には一切なかった」と言い切ったのも白々しいが、責任は一人放駒理事長だけにあるのではない。猛省すべきは、むしろ歴代の協会幹部たちである。

《注1》 相撲の年寄と碁をしていたのは「八百屋の長兵衛」というのが通説のようだが、「文士・事物起源探検家 松永英明絵文録ことのは」というサイト(http://www.kotono8.com/)は独自の調査から「八百屋の斎藤長吉」という名前を割り出しただけでなく、当時の相撲界の事情を新聞報道などのデータをもとに実にきめ細かく記述している。
《注2》 板垣退助のこと。当時は伯爵。熱烈な相撲愛好家で、相撲界の発展に尽力し、1909年(明治42年)に完成した最初の「国技館」という名称は板垣の裁断で決まった、と伝えられる。大相撲が「国技」と呼ばれるようになったのは、この「国技館」の名に由来するものと思われる。