「受胎告知」と“Let it be” 

(第214号、通巻234号)
    世界遺産の数が一番多い国はイタリアである。景観も、歴史的な建造物も、芸術作品も、とにかく多い。
    「花の都」・フィレンツェは、市全体が歴史地区として世界遺産に指定されている。街それ自体が「屋根のない博物館」とも称されるが、先月のイタリア旅行で感激した「博物館」の一つが、ルネサンス期の絵画で有名なウフィツィ美術館だ。ウフィツィは、イタリア語で“Uffizi”と書き、英語の“office”、つまり事務所にあたる言葉だそうだ《注1》。
    この「事務所」は、ボッティチェリラファエロ、レオナルド・ダ・ビンチらの巨匠の作品が一堂に揃うルネサンス期の名画の宝庫である。これまで美術の教科書や画集でしか見たことのない「ビーナスの誕生」(ボッティチェリ)など「名画のなかの名画」の実物を、ほんの1メートルぐらいの近さから見ることができて夢のような気分だった。
    宝庫の中には、ダ・ビンチの初期の作品とされる「受胎告知」もある。ビートルズの名曲“Let it be”を、絵と重ね合わせて連想した。言うまでもなく「受胎告知」は、新約聖書に題材を取ったもので、天使ガブリエがマリアの前に現れ、聖霊によって神の子(イエス)を身ごもったことを告げる場面だ。
    婚約中だったマリアは驚くが、結局は受け入れ、新約聖書のルカ伝によれば、“Let it be to me according to your word”と答えた。日本聖書協会の文語訳では「汝の言(ことば)のごとく、我に成れかし」とされている。「(主の)思し召し(おぼしめし)に委ねます」といったところだろうか。
    ビートルズの“Let it be”は、ともかくこの聖書の一節からとったものだという。歌詞の原文には“Let it be”のフレーズが繰り返し出てくる《注2》。歌全体では30回以上にのぼる。最初の方だけでもこんな具合だ。
       When I find myself in times of trouble
       Mother Mary comes to me,
       Speaking words of wisdom,let it be.       
       And in my hour of darkness,
        She is standing right in front of me,
       Speaking words of wisdom,let it be.
       Let it be,let it be,let it be, let it be.       
       Whisper words of wisdom,let it be.     
    歌詞の中の“Mother Mary”は、常識的には聖母マリアを指すと考えられるが、ビートルズファンの中には、歌を作った一人、ポール・マッカートニーの亡き母の名が“Mary”であるところからマッカトニーが自分の母親を思い浮かべて書いたもの、という説もある《注3》。しかし、実の母親のことなら、“my mother Mary”と表現するのが自然だと思われる。ただ、それとなく聖母マリアと掛けたつもりだったのかもしれない。
    今回のイタリア行は、「受胎告知」に限ったことではないが、欧米の文化を理解し、芸術作品を鑑賞するには、歴史とキリスト教についての知識がもう少しでもあれば、と痛感した旅でもあった。
    

《注1》 16世紀当時、トスカーナ公国の君主だったメディチ家のコジモ1世の執務室。他に税務署、裁判所など13の官庁が置かれていた。NHKハイビジョンの特別番組「イタリア7つの輝き」シリーズの「ミステリアス・ウフィツィ」(1月11日放映)によれば、コジモ1世は、暗殺を警戒し、住まいのピッティ宮殿から約1キロの回廊を歩いて執務室へ通ったと伝えられる。
《注2》 ビートルズの有名なアルバム「The Beatles」の赤盤(1962-1966)と青盤(1967-1970)の各2枚組みCDでは、歌詞はすべて大文字で書かれている。
《注3》 『やさしく歌える英語のうた1』(NHK出版、神保尚武監修・湯川れい子解説)