褒め言葉、感動表現がいつも「すごい!」とは

(第85号、通巻105号)
     定年後の「第二の職場」で先輩の1人が、新聞の読者欄のある投稿記事《注1》をコピーに取りながら「近頃の人の語感はどうなっているのか」と嘆いていた。コピーしていたのは「『すごい』って 言い過ぎでは」という見出しのついた一文。千葉県の66歳の郷土史研究家からの投書だった。その指摘は的を射ており、しかも意を尽くした筆遣いである。核心部分を紹介すると――
  [ 確かに森羅万象、大変すばらしく、たいそう立派なものは存在し、それらに素直な感動表現として「すごい」を使うのは許容できる。(しかし、それは)あくまで並以上のものに限定して使うべきなのに、現状ではたいして「すごく」もない事象への多用が著しい。安易な「すごい」は軽薄だ。(中略)「すごい」に代わる用語を探す努力も、表現者には必要であろう。]
    「すごい」は、漢字で「凄い」と書く。元々は「身震いするほど寒い。ぞっとするほど恐ろしい」の意だったが、その原義から「あまりにその程度が甚だしくて、人を驚かせるほどである。ふつうでは考えられないような事象に接して感心したり、驚いたりする様子」(三省堂新明解国語辞典』など)という意味を生じた。最近ではもっぱら、この派生的な用法で使われることの方が圧倒的に多い。
     思いつくままに同類語を挙げてみると、「すさまじい 凄みのある 身震いするほど 強烈な 驚くほど 迫真の 迫力がある 目を見張る 普通の出来でない 素晴らしい 素敵な 美しい 絵に描いたような 圧倒的 感動的 息を呑む 驚くような 形容しがたいほどの 筆舌に尽くしがたい 見たことも聞いたこともない……」などいろいろ言い換えできる《注2》。 
     しかし、実際のところ、ほとんどの日本人は、なにかを褒めたり、感嘆の気持ちを表す時には「すごい」のひと言で済ませているのではあるまいか。最近では、北京オリンピックでの水泳の北島康介選手らの活躍ぶりを見て「すごい」を連発した人が多かったに違いない。かく言う私もその1人だ。しかし、表現する言葉が一律になると、人それぞれの感性や複雑微妙な気持ち・思いまでもが単純化し、画一化してしまう恐れがある。
     現代の日本語には、そもそも褒める言葉や感動を表現する語彙が少ない。そう嘆く1人に名エッセイストでもあったマエストロ・岩城宏之がいる。その著『指揮のおけいこ』(文春文庫)に、ウイットに富んだこんな一節がある。
  [ ゴルフをやっていると、われわれ日本人の語彙の少なさにあきれる。ひとが球を打つと、誰もがバカの一つ覚えのように、「ナイスショット!」と叫ぶのだ。(中略)「輸入物の西洋音楽をやる場合、特に指揮者にとっては、日本語は不便極まる。(中略)オーケストラのメンバーとの練習で、「美しい!」「スバラシイ!」「キレイ!」と叫ぶのは、お互い日本人同士ではテレクサクて駄目だし、「お上手、お上手!」と言ったら「バカにするなっ!」と、怒鳴り返されそうだ。ゴルフや草野球ではないのだから「ナイス」でもない。褒めることができないのである。]
    音楽家と言えば、私の知り合いの合唱界の重鎮の1人は、コンサートの挨拶でも合唱練習の指揮の時でも「素敵な演奏」というのが口癖だが、オーケストラのメンバー相手にはあまりふさわしい表現とは思えない気がする。
    で、クラシック音楽の指揮者・岩城はどうしたか、というと「結局、オーケストラに対して満足にうなずくぐらい」だったそうだ(上掲書)。
    ところで、当ブログは、先週木曜日の14日にアクセス数が10万pv(ページビュー)の大台を突破した。再スタートから1年8カ月、84号目である。毎週1回の更新ペースを1度も休まずよく維持してきた、と思うが、「我ながら、すごい」と言っては陳腐のそしりを免れない。ふと気がついたら皆勤賞、といったところだろうか。


《注1》 8月9日付け朝日新聞朝刊「声」欄
《注2》 「彼の勉強ぶりはすごい」とか「すごい美人」とか肯定的に使われることが多いが、『明鏡国語辞典』(大修館書店)には、「程度の高さについては、プラスにもマイナスにも評価する。『すごい暮らしぶり』は、極端に富裕の意にも貧窮の意にもなる」と注記がある。