「よりハヤく」。音楽家の言葉

(第86号、通巻106号)
    北京オリンピックが終わった。「より速く、より高く、より強く」。このオリンピックの標語のうち「速く」にからめて、前号で題材に借りた指揮者・岩城宏之の『指揮のおけいこ』(文春文庫)の一部を再び取りあげてみたい。
    同書には言葉に関するトリビアがいくつか載っている。その一つに「アレグロ」(allegro)がある。手元の音楽用語事典では「快速に、を意味する速度標語」と説明されている。ところが、マエストロ・岩城は前述の著作でいささか大げさに次のように述べているのである
  [ わが国ではイタリー語の‘アレグロ’が、明治の文明開化以来「速く」と誤訳されてきた。本来は「陽気な、快活な」という意味だ。そのせいで日本の音楽には、アマチュアを含めて「アレグロ」を、パカパカ速く弾いてしまう傾向がある。ぼくなども20年くらい前までは、パカパカやっていた。外国のオーケストラと仕事をするようになってからも十数年、この誤解のままでいい気なものだったのだから、実に恥ずかしい ]
    『日本大百科全書』(小学館)には、確かに‘アレグロ’という音楽用語は「愉快な、陽気な」が原義のイタリア語の‘allegro’を語源に持つ言葉、とある。気分が愉快な場合は、動作も速くなるのが普通だ。そこから「速く」という音楽の速度標示になったのだろう《注》。『日本大百科全書』には「アレグロはまた、ソナタ交響曲における速いテンポの第一楽章や終楽章を意味する用語としても使われる」とも説明している。
    「アレグロ」の「ハヤい」は漢字で書くと「速い」だ。辞書の定義風に言えば、「一定の時間内に動く長さ・量が大きい」(『三省堂国語辞典』)ことを指す。一方で「早い」もある。こちらは、「まだその時間になっていない」(同辞典)という意味だ。そこでマエストロ・岩城はこう嘆く。
  [ リハーサルで指揮者が、ある管楽器奏者に「そこのところ、ちょっとハヤ過ぎる」と注文をつけるとする。これだと「テンポが速過ぎる」ということなのか、「出が早過ぎる」なのか、言葉だけではどちらだかわからない ]
    英語なら前者の場合は、‘too fast’、後者であれば‘too early’と完全に区別が付く。
    事は音楽に限らない。駅まで遠いのでハヤク行く、という場合も両用に受け取れる。「スピードを速めて歩く」のか、「時間を前倒して早めに出かける」のか。岩城によれば、この区別があるのは英語だけでなく、ドイツ語もフランス語も同様でヨーロッパ系の言葉では「ハヤイ」の言い方を苦心する必要がないという。
    しかし、これをもって日本語は欧米語より遅れている、と「速断」するのは「早計」である。言語もまた、その国・民族の歴史、生活様式、文化によって個性があるのである。

 
《注》 『音楽用語の基礎知識』(遠藤三郎著、シンコー・ミュージック)では、「汗をかく程度に駆け足をする気分の速さ」と説明し、「ラテン語の‘alacer’(楽しい)が語源」と補足している。