ビール、「まかれちゃった」とは誰がこぼしたことなのか?

(第89号、通巻109号)
    北海道弁を扱った前回のエントリーは、予想だにしなかった大きな反響があり、貴重な指摘もいくつかいただいた。方言といえば、ふつう話題になるのは、語彙を中心に共通語とのイントネーション、アクセントの違いだが、今回は視点を変え、「愛読者」からの指摘、アドバイスを基に北海道弁の文法的な側面に焦点をあててみたい。
    なるほどと感じたのは、北海道弁には「受動態っぽい言葉が多い」というするどい指摘だった。前回の標題に挙げた「(ビールを)まかす」(ビールをこぼす)について、「(ビールが)まかれちゃった」のように言うという。確かに思い当たる節がある。ビールを意図的にわざとこぼしたのではなく、なにかの拍子に(例えば、誰かがうっかりコップに触ったとか、立ち上がった時にテーブルが揺れたとかして)こぼれてしまった、というのが含意だ。この場合は、受動態というより、自発的な表現、と言った方が適切かもしれない(あるいは、他動詞が自動詞化した言い回し、というべきか)。
    実際、北海道弁では独特の自発的な表現がよく用いられる。たとえば、「エレベーターの5階のボタンが押ささった」とか「塩辛うまくて朝からごはんたくさん食べらさる」とか、といった具合だ。前者の例文は、自分は6階に行こうと思っていたのに何かが触れて5階のボタンが押されてしまった」の意、後者は「たくさん食べるつもりではなかったのに、塩辛のうまさにつられてついつい食べ過ぎてしまった」という意味だ。
    言語学にも国語学にも門外漢の私には、方言文法の解析は手にあまるので、『日本語百科大事典』(大修館書店)のほか、ホームページ「使える北海道の言葉」《注》やウェブ百科「Wikipedia 」(ウィキペディア)などを参考に概観してみると、5段活用動詞の「未然形+さる」、上1段、下1段活用動詞の「語幹+らさる」の形で「進んで動作しようと思っているわけではないが、状況から自動的に、あるいは自然に対象物が動作してしまう」という意になる、と要約できる。
    つまり、動作主でなく、動作対象物が主体となった表現なので、動作主の意図があいまいになりかねないが、おおらかな道産子らしい言い回しともいえる。
    北海道弁の「自発表現」はしかし、否定形の方がむしろ頻繁に使われるような気がする。よく挙げられるのは「このペン、書かさんない」という用例だ。「自分では書こうとしているのに、インクが切れているか、詰まっているか、ともかく状況が悪いので書けない」という意味で使われる。過日、クラス会で札幌に行った際、あるレストランで「このロールキャベツ、ベーコンが巻かさってない」という客の言葉も耳にした。こちらは、自発表現というより受動態の否定形か。
    生まれ故郷の釧路を出てから40年余。忘れかけていた北海道弁が近頃は時々ひょいと浮かぶ。そっと口に出してみる。歯の治療を受けた後は「いずい」と感じ(違和感がある)、手につけた糊がなかなか取れない時にはやたら「ねっぱる」(くっつく)といまいましく思うし、買った本に落丁を見つけ別の品と取り替えてもらおうとする際には、交換という意の北海道弁「ばくる」を思い浮かべるのである。


《注》 ホームページ‘Let Me Enjoy My Life’の「使える北海道の言葉」(http://www5d.biglobe.ne.jp/~mitch73/sapporo002.htm