「垣間見せる」に続いて「垣間聞く」も登場

(第68号、通巻88号)
    「垣間(かいま)見る」にせよ、「垣間見せる」にせよ、「かきねの間、すき間」の意の「垣間」という語との複合語と思っていた。ところが、今度のテーマを取り上げるに当たって「かいま」を大小の辞書を調べてみても、意外なことに「かいま」単独では載っていない。その代わり「垣間見(かいまみ)」の形では出ている。しかも、そこには「かきまみ」の「転」あるいは「音便」という注が付け加えられている。

    音便とは、ある単語の一部の音韻が発音しやすいように変化することである。たとえば、「書きて」が「書いて」に、「泣きて」が「泣いて」に、という風に「キ」が「イ」に変わる場合は「イ音便」という。

    「垣間見」について言えば、昔は(おそらく万葉の頃には)「カキマミ」と発音されていた。それがイ音便化して現代の「カイマミ」になったというわけだ《注1》。しかし、発音は変わっても、語法的には長い間「垣間見る」の形で使われてきた。そこに「垣間見せる」という新しい使い方が加わり始めたのは、前回のブログで触れた柴田翔著『されど われらが日々――』の頃、すなわち1960年代と思われる。

    その新語法については、前回見たように大半の国語辞書は、見出しにすらあげていない。認知しているのは、今のところ少数派だ。辞典ではなく、マスコミ関係の用語の手引き書類は、「垣間見る」の項に「『垣間見せる』は誤用」と注記しているが、その後さらに調べたところ、読売新聞の用語集『読売スタイルブック 2005』では、誤用とまでは踏み込まず、「不適切」としていることが分かった。

    前回書いたことを含め「垣間見せる」という語の対応をまとめてみると、1)無視、2)半ば追認、3)認知、4)誤用、5)不適切、の5種類に分けられる。ある語についてこれだけ辞書類の扱いがばらつくのは珍しいのではあるまいか。

    最近はまた、「垣間」の複合語の新種として「かいま聞く」という語が出てきた。「見る」ではなく「聞く」だ。「ちらっと聞く」「小耳にはさむ」といった意味で使っているのだろう。「垣間見る」の「かいま」は、すき間、つまり空間的な狭さを意味しているのだが、「かいま聞く」の場合、「かいま」を時間的な狭さ、つまり短時間の意に解釈したものと思われる《注2》。

    もちろん、誤った用法である。国語辞典類には今のところ掲載されていないようだが、日本新聞協会の『新聞用語集 2007年版』ではすでに「誤用」として注意を喚起している。これとて新語法としてじわじわ広まり、いずれ認知されていくのかもしれない。

    ためしにGoogleで検索してみると、インターネット上には「私は家内からあらすじをかいま聞くだけで……」とか「ベートーベンの繊細さをかいま聞くたびに……」とか「最近のDJかいま聞くかぎり、ろくなことしゃべっちゃいません」といった文がいくつかあった。


《注1》 『日本語百科大事典』(大修館書店)、『新版 日本語学辞典』(桜楓社)、『日本国語大辞典』第2版(小学館)、『岩波古語辞典』補訂版、など参照。
《注2》 講談社現代新書日本語誤用・慣用小辞典』(国広哲弥著)
【謝辞】 23日午前0時過ぎに更新して23時間後の午後11時過ぎにpv(ページビュー)が600を超えた。これまでの1日当たりのpvの最高は「気が置けない」を扱った3月26日号の400だったから、今回は大幅な記録更新だ。拙いブログを愛読してくださっている方々に改めてお礼申し上げたい。