『されど われらが日々』の言葉遣いを「垣間見る」

(第67号、通巻87号)
    60年安保闘争を時代背景にした青春群像。柴田翔著『されど われらが日々――』(文春文庫)を約40年ぶりに再読した。エリート大学生達の思想と恋愛の軌跡を描いた青春文学の名作である。今、読み返して見ても、テーマといい、筆力といい、歴代の芥川賞受賞作の中でもトップクラスの小説だ、と自らの青春時代を重ね合わせ、あらためて感心した。

    ただ、筆の運びに若干の生硬さを感じた。回りくどく難解な表現もあった。当時29歳だったという作者の、若さゆえの背伸びかもしれない。それはともかく、読み始めて3分の1を過ぎたあたりで目にした「垣間みせる」という言い回しに違和感を覚えた。

    それは、こんな文の中で使われていた。「ぼくは、君が時折垣間みせるほどの自己の才能への自負は、持っていませんでしたが、それでも、自分の能力が、世間一般の人々よりかなり秀れているということは、なんとなく当たり前のことと感じてきました」。

    「垣間(かいま)見る」とは言うが、「垣間見せる」という表現はあるのか。『明鏡国語辞典』、『岩波国語辞典』、『大辞林』、『広辞苑』など自宅にある中小の辞書類を何冊か調べてみた。「垣間見る」は「(物のすき間などから)こっそり見る、ちらっと見る」などとあるが、「垣間見せる」の方は載っていない。

    ところが、インターネットの知識掲示板「Yahoo!知恵袋」に「最近は『垣間見せる』という言葉も出てきて、誤用かどうか議論になる」という指摘があるのを知った。また、『05−06年版 朝日新聞の用語の手引き』には、「垣間見る」の項に「『垣間見せる』は誤用。『のぞかせる』『うかがわせる』などとする」と注意が添えられている。共同通信社の『記者ハンドブック』第8版や日本新聞協会の『新聞用語集 2007年版』にも「誤用」との注がある。ということは、言葉の新しい使い方が揺れている段階で、語法の変化過程の表れと見ることもできる。
    念のため、日本最大の収録語数を誇る全14巻の『日本国語大辞典』第2版(小学館)にあたってみると、あっと驚く記述に出合った。一種の奇遇と言ってもいい。

    この大辞典には、「垣間見る」関係だけで5項目の見出しが立てられている。用例も日本書紀源氏物語更級日記など古典からのものが多い。そんな古い時代の文例に混じって、なんと「ぼくは、君が時折垣間みせるほどの自己の才能への自負は、持っていませんでしたが」との一文があったのである。出典はむろん柴田翔の『されど われらが日々――』だ。その文を載せている項目の見出しが「かいまみせる」だった。見出しの下に「他サ下一」とあるから、「サ行変格、下一段活用の他動詞」として認知しているわけだ。

    そこで、調査の範囲を広げてみたところ、『現代国語例解辞典』(小学館)、『三省堂国語辞典』にも、「最近では、『垣間見せる』の形も使われるようになっている」などと記述されていることが分かった。「垣間見せる」の扱いについては、国語辞典の中でも、かなり“温度差”があるのだ。「垣間見た」だけでは、とても書き切れないので、次回もこの言葉の周辺を追ってみたい。