「八ツ場ダム」の「ツ」はなぜ「ん」と読むのか

(第145号、通巻165号)
   
    先日、民放テレビの旅番組の英国編を観ていたら、有名なオックスフォード大学の校名の由来について説明している場面があった。よく知られた話ではあるが、大学の所在地のオックスフォードはoxとfordの合成語で、「牛」(ox)が渡れる「浅瀬」(ford)の意でつけられた、というエピソードだ。この地名がかつて「牛津」と日本語訳された由縁である(「津」は船着き場の意)。
    
    地名は、その土地の地勢上の特徴や産物、歴史、ゆかりの人物など様々な事象にからんでいるものだ。このところ、連日、ニュースに登場する群馬県の「八ツ場ダム」。「ツ」とあるのにどうして「ん」と発音して「やんばダム」と読むのか、疑問に感じるのは私だけではないだろう。この問題も単に発音だけからアプローチしては読み解けないようだ。そもそも「八ツ場」とはなにか。
    
    これが一筋縄ではいかない。手元にある辞典・事典類にも載っていない。Webで検索してみると、いろいろな説が紹介されている。傾聴に値する意見もあるが、決め手に欠く。そこで、ダムの地元の群馬県長野原町ダム対策課に電話で尋ねた。役場でもはっきりしたことは分からない、と言うが、県外からの問い合わせが多いので、町のホームページ「長野原町へようこそ!」《注1》に「八ツ場(やんば)のいわれ」を載せている。地元の民俗研究者の意見も参考にした内容という。
    
    町のホームページでは、地名の由来には諸説あり、どれが正しいのか分からない、と断った上で有力な説を3つ紹介している。
    1)狭い谷間に獲物を追い込んで矢を射った場所「矢場(やば)」が転じて「やんば」となった 2)狩猟を行う場所に8つの落とし穴があったところから「8つの穴」→「やつば」→「やんば」になった 3)川の流れが急であるところから「谷場(やば)」と呼ばれていたが、「やば」では短すぎるので、撥音(はつおん)《注2》を入れて調子をつけ発音しやすいように「やんば」とした――というものだ。
    
    これら3説に加えて「梁場(やなば)」説もある。9月下旬にスポーツ報知が伝えるところによれば、地名学者の楠原佑介氏の説を引用して、この地域は川を下るアユを竹製のスノコを使って獲る「梁漁」が行われていたところから「梁場」と呼ばれていた。しかし「梁」という漢字は難しいので「八」の字を当て「八ン場」と言われていたが、「ン」と「ツ」は字が似ているため混同され、「ン」という読みだけが残ったのではないか、というのである。
    
    このほかにも、現地の吾妻川にある名勝・吾妻峡の険しい地形の大地を切り裂く意の「裂(やば)く」《注3》が「やば」となって音便化し「やんば」になったとか、吾妻峡の「岩場」が訛って「いやんば」になり、さらに「やんば」に変化した、という説を言う向きもある《注4》。
    
    しかし、どの説も、語源の正否はともかく、なぜ「八ツ場」と書いて「八ん場」と発音するのかについては説得力がない。日本語の音韻の変化を語るには橋本進吉の名著『古代国語の音韻に就いて』(岩波文庫)をまずひもとかなくてはならないが、国語学の素人が同書を斜め読みした程度では音便化が関係しているかな、というボンヤリとした見当をつけるのがやっとだ。
    
    そんな折、『日本語百科大事典』(金田一春彦・林大・柴田武責任編集、大修館書店)の「音韻・音声」の章で参考になりそうな記述を見つけた。「(言葉が)強調やある感情を込めて用いられる時、長音化したり、促音《注5》・撥音が挿入されたりすることがある」として「まだ→まーだ、すごく→すっごく、みごと→みんごと」の例を挙げているのだ。
    
    この例の中で私がとくに注目したのは2番目の「すごく→すっごく」だ。「すごく」はしばしば「すごく」とも言う。3番目の「みごと」にしても「みっごと」と発音する場合がある。それから「みんごと」に変化したとも考えられる。「八場」と書いて「八場」と発音するのと共通している。「やば」に促音便の「ッ」が挿入され、その「ッ」が今度は撥音便化して「ん」に変わった、とも推理できるからだ。
    
    上述の私見は、学問的な裏付けがあるわけではないが、広い意味での音便化と言えるのではあるまいか。いかにももっともらしい独創的な仮説、とひとり悦に入っている。


《注1》(http://www.town.naganohara.gunma.jp/dam/index.html
《注2》 鼻音の「ん」
《注3》 『字通』(平凡社)など手元の漢和辞典には「裂く」の読みに「やぶ」はあるが、「やば」は載っていない。
《注4》 「目からウロコの地名由来」(http://baba72885.exblog.jp/12512560/
《注5》 詰まる音。小さな「っ」