「失念」と言えば聞きよい「物忘れ」

(第39号、通巻59号)
    
    若い頃は、ちょっぴり背伸びしてインテリの匂いのする外国語や難しい漢語を使いたがるものだ。大学に入ってまだドイツ語のABCも満足に発音できないのに、女の子のことを「メッチェン」とドイツ語めかして言ったり、金欠状態を「ゲルピン」とドイツ語と英語のチャンポンで言ったり。あるいは、「アウフヘーベンする」(止揚する)と哲学用語を口にしてみたり。ある世代以上の人たちの中には、自分では言わないまでも周りにそんな風潮があった覚えがあるに違いない。

    あこがれ、を意味する「憧憬」。社会人になって1年余、少しは仕事にも慣れ、年上の同僚とバーに出かけた。カウンターで“ハイボール”を飲みながら文学論議をしていて私が「〜には“どうけい”を感じる」というようなことを口にしたところ、「それを言うなら、“しょうけい”だよ」とたしなめられた。いささか自尊心を傷つけられ、自宅に帰って辞書で「どうけい」を引いてみた。「憧憬」と出てきはしたが、「しょうけい、を見よ」という指示があった。この記述ぶりからみると、本来の読み方としては「しょうけい」が正しい、と思わざるをえなかった《注1》。

    中年になると、背伸びというより、重々しい、勿体ぶった言葉を使いがちになりやすい。標題に挙げた有名な川柳は、そんな傾向を軽く皮肉ったものだろう。けち、と言えば済むところを「彼は吝嗇(りんしょく)家だからね」と言ってみたり、やきもち、のことを「悋気(りんき)」と言ったりする類だ。行き過ぎると、本ブログの前身、goo時代の06年11月10日号《注2》で扱ったように意味を取り違えて使ったり、上述の「憧憬」のように読み方を間違ったりするケースも出てくる。

    その典型的な例が「矜持」だ。「自分の能力を信じていだく誇り。プライド」(『岩波国語辞典』)の意を間違える人は少ないだろうが、読み方はどうだろう。旁の「今」に引きずられて「きんじ」と読む人が多いのではあるまいか。というのも、国語辞典がわざわざ「“きんじ”は俗読み」とか「慣用読み」とかと注をつけ、中にははっきりと「読み誤りに基づく」と断じている例さえあるからだ。正しくは「きょうじ」と読む。


《注1》 『明鏡国語辞典』(大修館)の「どうけい」の項に、「しょうけい、の慣用読み。⇒しょうけい」とある。ほとんどの辞書はほぼ同様の扱いだが、『日本国語大辞典』(小学館)によれば、「憧憬」は漢籍に基づく語ではなく、和製熟語だという。同辞典には「どうけい」の用例も掲載されている。

《注2》 以下の文は、私がgooブログ時代に書いた『言語楼』2006年11月10日号の一部を再録したものだ。
 [ 文筆を業としているような人でもうっかり間違えて使う言葉の一つに「すべからく」がある。漢字では「須らく」あるいは「須く」と表記する。元々は漢文訓読から生まれた用法で「すべからく〜すべし」と使う。「当然(あるいは、為すべきこととして)〜しなければならない」という意味だ。「学生はすべからく勉強すべきである」といった具合に用いられる。ところが、この「すべからく」を「すべて」のという意味の高級な、あるいは高尚な表現と思いこんで誤用している例が目立つ。よく引き合いに出される「学生は……」という上記の例文のように、「すべて」の意味でもごく自然に通じるケースが多いからだろう ]