「ていをなしていない」と言っても「体はなしている」 

(第30号、通巻50号)
    「体をなす」という慣用句がある。時には「体を成す」と表記することもある。まとまった形になる、というほどの意味だが、否定形で使われるケースが多いように思われる。「会議の体をなさない」とか、「記事の体をなしていない」とか。

    さて、問題はこの表現の中の「体」をなんと読むか、である。これについて、当ブログの愛読者でもある知人からリクエストが寄せられていた。「ていをなす」と覚えていたが、辞書で調べてみたら「たいをなす」が正しいとあった。本当のところはどうなのかブログで明らかにして欲しい、という要望だ。

    と、言われても、当方は、B級の「高等遊民」に過ぎない。第一、私自身もリクエスト氏と同じく、普通は「ていをなす」「ていをなさない」と「てい」を使っている。が、話し相手が「たい」を口にしても違和感は覚えない程度の認識でいたので、虚を突かれた思いだった。一知半解の知識も持ち合わせていない。ただ、辞書だけは、人様より多く持っている。辞書には辞書で応えるしかない。

    で、暇を見ては各種の国語辞典に次々と当たってみた。本棚の奧から最近はあまり利用しなくなった辞書まで引っ張り出した。調べた辞書は、大中小合わせて11冊《注1》にのぼる。

    その結果わかったのは、「ていをなす」の方を見出し語に立てている辞書は1種類もなかったことだ。単語としては「たい」も「てい」も両方《注2》ある。そして、辞書の中には、「体(たい)」の語義の最後に「てい(体)」を見よ、とか、逆に「体(てい)」に見出しの項の中に「たい(体)」を見よ、と指示しているものもいくつかあった。

    しかし、「体をなす」の慣用句としては「たい」を本来の読みとする点ではどの辞書も一致していたのである。わずかに、『大辞林』だけは、「たい」の追い込み見出しの「体をなす」の項目の中で「ていをなす」の読みを副次的に挙げているだけである。

    以上をまとめると、「ていをなす」は必ずしも間違いとは言えないが、「たいをなす」が本来の読み方ということになる。

    それにしても不思議なのは、普通、辞書は伝統的な用法からはずれた言葉には、「〜の俗用」とか「〜の訛り」、「〜の音韻変化」とかいうように一種の注をつけるものだが、「ていをなす」についてはそれもないことだ。


《注1》 『日本国語大辞典』(小学館)、『言海』(六合館)、『大辞林』(三省堂)、『大辞泉』(小学館)、『広辞苑』(岩波書店)、『日本語大辞典』(講談社)、『国語大辞典』(小学館)、『明鏡国語辞典』(大修館)、『ベネッセ表現読解国語辞典』、『岩波国語辞典』、『新明解国語辞典』(三省堂)。

《注2》 「たい(体)」は、身体、姿、ありさま、事物の本質、実体、などの意味を持つ。これに対し、「てい(体、態)」は、外から見た様子、体裁、などの意。「たい(体)」の方が語義が幅広い。