「手前」とは、「おまえ」のこと? 自分のこと? 

(第16号、通巻36号)
    言葉とは不思議なもので、同じ単語で正反対の意味を持つ例が少数ながらある。「結構」はその一つだ。「結構なお点前で…」とか「結構なご身分ですね」とか言うのは、すぐれている、みごとだ、うらやましい、といった肯定的な意味になるが、商品などを電話勧誘されて「間に合っています。結構です」と答えるのは否定的な用い方で拒絶を表わしている。「いいです」も、「結構」と用法が似ていて肯定的と否定的の両方の意味で使われる言葉だ。

    あるいはまた、「一杯(いっぱい)」という語。勤め先からの帰途「軽く一杯どう?」と同僚に声をかけるのは、酒を「少し」飲んでいこうか、という誘いだ。我が身を振り返れば、一杯どころか何杯も飲み、かつ食べることになることが少なからずあった。その結果、「もう腹いっぱい」となる。ここでいう「いっぱい」は、量が多く、十分満ち足りている、という意味。「軽く一杯」の正反対だ。「風呂の水が一杯になる」「店は客で一杯だ」などという用法も「一杯 = 満杯」にあたる。芥川龍之介の表現を借りれば 一種の“超数学”だ《注1》。

    「先」という語は、「前」と「後」、正反対の意味を持つ典型だ。まず、「前」の意の文例をいくつか示すと、「列の先に立つ」「技術では一歩先を行く」「お先に失礼」などなど。次に「後」の意では、「先のことは分からない」「お先真っ暗だ」「先送り」などといった例もある《注2》。

    「手前の説教なんか聞きたくない」という場合の「手前」は、二人称の代名詞で「お前、てめえ」の意。「手前のことは手前でやれ」という具合に目下の者に対して、あるいは相手をさげすんで使うのが普通だ。かと思えば一人称の代名詞にもなる。「わたくし、自分」のことをへりくだって「手前どもの店では…」と言ったりする。「手前味噌を並べる」「手前勝手」などという表現は、一人称の変形的用法とも考えられる。

    正反対の意味を持つ語は、むろん日本語に限ったことではない。英語にも、「我々、手前ども」を意味する“we”を、話し相手を指す“you”の代わりに使うこともあるのだ。“Paternal ‘we’”[親身のwe]と呼ばれる用法で、『英文法解説』(金子書房、江川泰一郎著)には、医者や母親、教師などが患者や子供に対して愛情・いたわりを込めて用いる、とある。辞書には、“How are we feeling this morning, Mr. Gibson ? ”[けさのご気分はいかがですか、ギブソンさん]といった類(たぐい)の文例が載っている。この“we”は一般的な英語ではむしろ“you”を使うのが普通だろう。

    “defeat”という英単語がある。私などは「打ち破る」「負かす」という動詞の意味しか知らなかったが、皮肉なことにその名も『日本語』(岩波新書金田一春彦著)という本で、この単語の名詞には「打ち負かされること、敗北」というまったく逆の意味があることを教えられた。一語で「負けるが勝ち」を示している、ともいえるわけだ。また、“cleave”という語には「割れる」と「くっつく」の相反する意味があることも同書で知った。

    日本語にしろ、英語にしろ、正反対の語義を持つ言葉を使ってよく混乱しないものが、たいていの場合は文脈、その場の話の流れなどから自ずと察しがつくのだろう。言語を作ったのは人間なのだから。


《注1》“超数学”なる語は、芥川龍之介の『侏儒の言葉』からの借用。[天才とはわずかに我々と一歩を隔てたもののことである。ただこの一歩を理解するためには百里の半ばを九十九里とする超数学を知らなければならぬ。]

《注2》例文は、『岩波国語辞典』第5版や大修館の『明鏡国語辞典』などを参照。