校正と校閲の違い?! 

(第162号、通巻182号)
    「校正に携わった専門書や辞典 計27500ページ」。2月8日付け朝日新聞夕刊の「月曜ワーク」」という特集面に、こんな見出しの記事が載った。「凄腕(すごうで)つとめにん」の一人として岩波書店の校正部課長の仕事ぶりを紹介したものだ。    
    校正とは、『デジタル大辞泉』には、「1.文字・文章を比べ合わせ、誤りを正すこと。校合(きょうごう)。2. 印刷物の仮刷りと原稿を照合し、誤植や体裁の誤りを正すこと」とある。要するに、元の原稿通りに印刷されているか点検して直す作業だ。しかし、上記の校正部課長さんは、記事によれば、文字やデータ、事実関係についての疑問点を可能な限り文献やインターネットで調べ、時にはイタリア語やドイツ語などの原文にも当たるという。
    ここまで徹底的にやるとは、校正と言うよりむしろ校閲の範疇にはいる作業だ。校閲とは、「文書や原稿などの誤りや不備な点を調べ、検討し、訂正したり校正したりすること」(『デジタル大辞泉』)。校正と校閲。こう二つの語の定義を並べても、どう違うのか分かりにくいかもしれない。厳密に言えば、区別があるのだが、実務面では仕事内容が重なり合っており、一般世間でも同じ意味の言葉と受けとられることが多いようだ。
    あえて校正と校閲の違いを際だたせるため、校正部課長さんも編集に関わったことがあるという『広辞苑』を題材に短い文例(内容は架空)を作って説明してみよう。
  [ 岩波書房の『広辞林』の初版が発行されたのは戦前の昭和29年(1954年)のことだ。辞典を開いてすぐのページに編者の新村出(にいむら・いずる)の有名な序文が掲載されている ]
    岩波書→岩波書。広辞→広辞。戦→戦。いずれも、矢印の右側の文字が原稿にもともと書かれていたものなので、原稿通りの字句に戻す直しをいれる。これが校正だ。
    しかし、原稿そのものに事実関係の間違いがあっては困る。この文例で言うと、広辞苑の初版が出たのは、昭和29年ではなく、昭和30年だから括弧内の西暦とともに昭和の年号も正しく直す必要がある。また、編者の新村出の名字を「にいむら」と読むのは間違いで正しくは「しんむら」という。だから括弧内のふりがなも訂正しなくてはならない。さらには、「序文」としている個所は原典では「自序」《注1》とあるところなので、やはり「自序」と朱直しが必要になる。これらの作業が校閲である。
    つまり、校閲は、原稿に出てくる人名、地名などの固有名詞、歴史的事実はもちろんのこと、文章の整合性についてもチェックするなど内容にまで踏み込んで詳しく調べる。ただし、勝手に直さず、筆者に疑問点を指摘して確かめるのが普通だ。例えば、上記の文例をもう一度使って言えば、筆者は広辞苑ではなく広辞林のことをテーマにするつもりでいたのに、うっかり広辞苑と勘違いして書いたのかもしれない。とすれば、出版社名も、初版の年も、編者もすべて広辞林のデータに合わせなくてはならなくなる。
    校正と言うにしろ、校閲と言うにしろ、縁の下の力持ちだ。先の「校閲課長」さんは、記事の中で「校正の精度が99.99パーセントでも、250ページ、15万字の新書なら誤植は15文字になる」と語っている。「後生畏(おそ)るべし」《注2》をもじって「校正おそるべし」とよく言われるが、まさに至言である。


《注1》 高島俊男著『お言葉ですが…』シリーズは、遠慮会釈のない辛口エッセイの傑作だが、新村出の自序については第11巻(連合出版刊)の中で珍しく「苦心の名文」と評している。
《注2》 「後生畏るべし」は、『明鏡国語辞典』(大修館書店)の定義に従えば「若者はさまざまな可能性を秘めているのだから畏敬すべきである」の意。