「わたし的には」は、もはや公的に認知?

(第76号、通巻96号)
   
     近頃気になる言葉遣いの一つに「わたし的には」(「ぼく的には」)がある。「私としてはそう考えます」、あるいは単に「私はそう思います」と言うべきところを、「わたし的にはそう思います」という形で表現する。
    
    この用法、「〜のほう」「〜とか」「〜みたいな」といった“ぼかし表現”の一種だろう。ストレートに言うと、傲慢(ごうまん)な印象を与えかねない。だから、あえて表現を曖昧(あいまい)にする。相手を傷つけず、自分も傷つかないように断定を避けるのだ。へりくだった感もあるが、時に“逃げ”の姿勢もちらつく。いかにも今風の若者言葉と言える。
    
    「個人的には」という表現もあるので、誤用とまでは言い切れないが、一人称としての「わたし」の後に「的」をつけるのは日本語としてこなれていない感じがする。
   
     そもそも「的」とは本来どんな意味なのか。『新潮日本語漢字辞典』では、弓矢の「まと」、「あきらか」など8種に大別した語義の4番目に「そのような性質、状態、傾向である」の意を挙げ、「公的、私的、知的、客観的、楽観的、ハムレット的」などという熟語を例示している。
    
    「的」という漢字は、簡単に言えば日本語の「の」「な」にあたる接尾語なので、色々な言葉、とくに名詞と結びついて形容動詞を作るケースが多い《注》。「一般的」「論理的」「模範的」など様々な言い方が現にあり、「NHK的な番組」とか「いかにもソニー的な製品」といった表現さえ用いられる。英語の‘-ic’の語尾を持つ語の訳語、例えば‘romantic’ 「浪漫的」、‘symbolic’「 象徴的」、‘democratic’「民主的」のようにも使われている。
    
     それが、「わたし的には」とも言われるようになったのは、せいぜいここ10年ぐらいの間のことだろう。実際、辞書でお目にかかったことはなかった。ところが、である。新語収録の早いことでも有名な『三省堂国語辞典』第6版(今年1月10日発行)は、「的」の見出しの項で「俗」と注記してはいるものの、「〜的に(は)の形で。…として」の語釈を示し、用例に「わたし的には納得できない」「テレビ的には悪役がいたほうがいい」とあるのだ。
    
    では、同時期に刊行された岩波書店の『広辞苑』第6版(1月11日発行)はどうか、というと、「(接尾語的に)…として、…においての意を表す」の語釈の後に「映像的にすばらしい」と並べて、なんと「わたし的に」を文例に出しているのである。“国民的国語辞典”が早々と認知したということか。「わたし的には」意外な感じがした。

《注》 『問題な日本語』(大修館書店、北原保雄編)