続々「新解さん」――辞書選びの指標

(第257号、通巻277号)
 
    辞書を比較する際に私がよく使う「」という語を指標にして辞書の個性の違いを見てみよう。日本初の近代的な国語辞典・大槻文彦著『言海』(六合館)。明治37年2月発行の第1版では、「人ノ身ノ、南ヘ向ヒテ西ノ方。左ノ反(ウラ)。ミギリ」ときわめてオーソドックスな語義を記している。辞書で右(or左)を説明するのに「北に向かって東(or西)の側」などと方角を援用するのは英米の辞典をはじめ日本でもよく見られる手法だ。

    では、国民的辞書を自称する岩波書店の『広辞苑』の最新版(第6版)ではどうか。「みぎ【右】(ニギリ=握り)の転か)」と見出しの直後に語源を添え、続いて「南を向いた時、西にあたる方」と、『言海』とまったく同じ記述ぶりだ。愛用の辞書『明鏡国語辞典』第2版(大修館書店)は「人体を対称線に沿って二分したとき、心臓のない方。話し手が北を向いたとき東に当たる方」と説明、やはり方角を語義解説の手段にしている。
  
    前々回のブログで『新明解』との対比に使った『岩波国語辞典』(第7版)は、「相対的な位置の一つ。東を向いた時、南の方。またこの辞典を開いて読む時、偶数ページのある側を言う」。伝統的な説明に加えてページを例に挙げたのが独自の工夫と言える。

     独自の工夫と言えば、『新明解』は発想からして他の辞書と違う。
  ・初版〜第3版:「大部分の人がはしや金づちやペンなどを持つ方(心臓が有る方の反対側)」
  ・第4版〜7版:「アナログ時計の文字盤に向かった時に、1時から5時までの表示のある側(「明」という漢字の「月」が書かれている側と一致)」

    「右」のような易しい言葉ではなく、用法が難しい「すべからく(須く)」のような言葉も辞書比べの指標に欠かせない。というのも、著名な作家や日本語の専門家・学者でも間違えて「すべての」(=all)の意で使っている例が多いからだ。例えば、水村美苗氏の『日本語が亡びるとき』(筑摩書房)に「中国の文化革命は貴重な文化財の多くを地球から永遠に消し去り、読書人を吊し上げて辱めた。カンボジアクメール・ルージュにいたってはすべからく虐殺した」とある。

    もう一つの例。日本近代文学、書誌学を専門とする谷沢永一氏が英文学者の渡部昇一氏との共著『広辞苑の嘘』(光文社)の中で以下のように述べている。
   「宋の頃、初めてシナ人の漢方医が解剖をやるのですが、本に書いてあることと実体とがまるで違う。その時にどう考えたかというと、これは罪人だから五臓六腑(ごぞうろっぷ)が間違ってついているのだろうと。すべからくその程度であって、日本の医学に影響を及ぼしたなどの(『広辞苑』の)記述は全く誤り。漢方とは近世日本に発展した独自の薬学研究である」。

    この「すべからく」について『明鏡国語辞典』(大修館書店)は「当然なすべきこととして。ぜひとも」の語釈を示し「学生はすべからく勉学に励むべきだ」の例文を添えた上、「漢文訓読から出た語。多く下に『べし』や『べき』を伴う」と注意を喚起《注》、「落ち武者たちはすべからく討ち死にした、など『すべて』の意に解するのは誤り」などと丁寧に説明している。

    ところが、『新明解』は「(漢文訓読に由来する語。多く『……すべし』の形で)ぜひとも(次の事をすべきだ)。『青年は勉学に励むべし』」とあっさり済ましている。日本語の専門家でも、「全て」あるいは「もろもろ」の意にうっかり(あるいは知らずに)誤用しているのが実情なのだから、すべからく国語辞典は「全て、の意味で使うのは間違い」と注記すべきだと思う。


《注》 講談社学術文庫『漢文法基礎』(加地伸行著)や『社会人のための漢詩漢文小百科』(大修館書店)によれば、「須(すべから)く」は、下に「べし」や「べきだ」を伴って、義務、当然、必要、を表す。「未だ……ず」などと同じ再読文字。漢字1文字で国語の副詞的な意味と推量の助動詞または動詞的な意味とを兼ね備え、始めに副詞的に読んでおいて、さらに下から返って助動詞または副詞的に読む。なお、この「すべからく」については、過去にも当ブログで取り上げている(2008年2月27日号ほか)が、今回は辞書の個性の観点からに絞り、新しい知見も加えて書き直した。