友の死に天も「慟哭」

(第245号、通巻265号)
 
    今月7日付けの当ブログで「野分」の読み方を取り上げた。その中で作家の井上靖が自作の散文詩を解説した際、「野分」を「いわば季節の慟哭(どうこく)とでも名付くべき風」と表現している、と紹介した。
    
    そう書いた2週間後の21日、関東地方は猛烈な強風を伴った台風15号に襲われた。近年ではまれにみる激しい「野分」だった。ちょうどその日、私のかけがえのない友は、井上靖の詩の一節を借りるなら「いちじんの疾風(はやて)とともに、みはるかす野面の涯に駈けぬけて行って」しまったのだ。その友は、職場にあった時は、もっとも親しい同僚であり、飲み友達であり、歳の近い兄弟のような存在だった。定年で互いに職場が変わった後も絆は変わらなかった。

    この数年食道ガンで闘病生活を続けていたが、3年前、危篤状態から奇跡的に生還し、軽く酒も飲めるほど回復していた。再入院したと聞いた時も、ちょっと骨休みしてすぐ戻るものと思っていた。

    悲報を知ったのは、彼が旅立ってから4日後のことだった。地域ボランティア活動の会議で議長を務めていた私は、再三の携帯電話でやむなく中座し、初めて友の死を知らされたのである。あまりの不条理に茫然自失。議長席に戻った後、議事をどう運んだのかも判然としないほど心は千々に乱れた。
   
    井上靖は、野分を「季節の慟哭」と表現したというが、友が千の風になった日の野分は、私には「天の慟哭」に思えてならない。友が旅立ってから28日で1週間。心は沈潜するばかりだ。