誤訳の悲喜劇 

(第22号、通巻42号)
    旧制一高生・藤村操の“哲学的自殺”は、誤訳が生んだ悲劇と言えなくもないが、『私の翻訳談義』(鈴木主税著、朝日文庫)によれば、明治時代、英語の誤訳を指摘されたのを恥じて自殺した翻訳の大家がいる、という。

    問題の英語は、“a lion at bay”。最後の3文字は、「ベイ・ブリッジ」の「ベイ」、一般的には「湾」の意味で使われる。そこで、明治中期の作家で翻訳家としても人気のあった原抱一庵(はら・ほういつあん)が「湾頭に吼えるライオン」と訳した。原作の題名も、前後の文脈も分からないが、いかにも重々しい文語調の香りがする日本文だ。

    ところが、“bay”には、「湾」以外にもいくつかの語義がある。“at bay”となった場合は熟語として、「窮地に立つ」「追いつめられた」という意味になるのだ。

    この点を当時の英語学の大家・山形五十雄に「とんでもない誤訳だ」と糾弾された原は、慚愧の念にかられてノイローゼになり、ある説によれば、ついに発狂死したともいう。しかし、“bay”には、「猟犬などが獲物を追いつめて吼える。または、吼える声」という意味もあるのだから、「湾頭に吼えるライオン」をあながち誤訳とは決めつけられない。私見では、むしろ「湾」と「吼える」を掛けた“名訳”という解釈も成り立つのではあるまいか。

    誤訳をめぐるエピソードで笑いを誘うのは、朴訥な人柄で信望の高かった平尾新・第3代東大総長の挨拶だろう。外国人を大勢招いた際、隣の部屋に食事が用意してあることを出席者に伝えるのにこう言ってのけたというのだ。  “There is nothing to eat, but please eat the next room”《注》

    「何もありませんが、隣でどうぞ召し上がってください」という日本語での言い方をそのまま英語にしたわけだが、食べるものがないのに食べろ、というのもおかしいし、「隣の部屋で」でなく「隣の部屋を」食べろ、というのはもっとおかしい。もっとも物の本によっては、後段の“the next room”がない例もあれば、 “at the  next room”と“at”を添えているケースもある。いずれにしろ、表現を控えめにする日本的な「謙譲の文化」の表れだろう。
(次回も翻訳をめぐる話題)


《注》 『日本人の言語表現』(金田一春彦著、講談社現代新書)。ほかに『翻訳事始』(吉武好孝著、早川書房)など参考。