続・華厳の滝投身自殺と「ホレーショの哲学」(改訂版) 

(第21号、通巻41号)
    "your"という語を目にしたら、明治時代の秀才・藤村操ならずとも、ほとんどの人が「君(君たち)の」と訳すのが普通だ。しかし、シェークスピアの『ハムレット』のあの場面のセリフにある"your"は、英語学者の渡部昇一著「英文法を撫でる」(PHP新書)によれば、話者と聞き手の間に信頼のこもった親近感を作り出し、ごく個人的な肯定的判断や否定的判断を示す働きをしているのであって、「君の」という意味ではない、という。

    すぐれた翻訳家でもある英文学者の行方昭夫氏も、岩波書店の同時代ライブラリー・シリーズ『英文快読術』の中の「既知の語でも辞書を引く習慣を」と説いた行(くだり)で「ホレーショの哲学」を取り上げ、こう述べている。

    [ 藤村青年はyourを「きみの」と解したのであった。この事件は明治36年のことであるから、当時の英和辞書には出ていなかったと思われるけれど、今の辞書なら何でも教えてくれるから、yourを引けば必ず「(通例けなして)いわゆる、かの、例の」と説明されている。 ]

    手元の英和辞典数冊にあたってみた。確かに、どの辞書も、「あなた(たち)の」という一般的な語義とは別立てで、「{しばしば興味・非難・軽べつなどの意味を含んで}皆の知っている、例の、あの」(学研『スーパー・アンカー英和辞典』)という意味を掲載している。辞書だけでなく『英文法解説』(金子書房、江川泰一郎著)にも同様の説明がある。

    ちなみに、世に何種類も出ている『ハムレット』の翻訳本はどうなっているかというと、
    現行の福田恒在訳が「ホレイショー、この天地のあいだには、人智の思いも及ばぬことが幾らもあるのだ」、
    また小田島雄志訳は「この天と地のあいだにはな、ホレーシオ、哲学などの思いもよらぬことがあるのだ」
    と、それぞれ工夫を凝らし巧みに表現している。

    まぁ、これは当然だが、明治時代でもすでに坪内逍遙が「この天と地の間にはな、所謂(いわゆる)哲学の思いも及ばぬ大事があるわい」と正確な翻訳を残してしている。「当時としては驚くべき正確な」(渡部氏)英語力だ。

    しかし、藤村青年が、"your philosophy"を「ホレーショの哲学」と誤って解釈せず、「いわゆる哲学」と正確に理解していたら投身自殺しなかったかどうかは、“your psychoanalyst”(「いわゆる精神分析学者」)でも分かるまい。


【お断り】 今回のブログは、「gooブログ」時代の2006年07月27日に取り上げた題材を加筆補正した新バージョンの前回の続きです。