中欧の秋は「紅葉」より「黄葉」が中心だったが……

(第300号、通巻320号)

    「今はもう秋 誰もいない海……」。秋になるとつい口ずさんでしまう曲の一つだが、童謡・唱歌だと「紅葉(もみじ)」か「虫のこえ」も欠かせない。今回は中欧周遊の旅にからめて話題を「紅葉」にしぼろう。
        
        秋の夕日に照る山もみじ
         濃いも薄いも 数ある中に
        松をいろどる楓(かえで)や蔦(つた)は
        山のふもとの裾(すそ)模様

    今回、私が観光ツアーで訪れた中欧オーストリアハンガリーチェコスロバキア)とドイツの5カ国は、いずれも関東より緯度が高いので10月初旬といえば、日本の11月ころにあたる。木々は当然、赤や黄の秋色に染まっているはず、と思い込んでいたが、「紅葉」はほとんど見られなかった。同じ「こうよう」という発音でも「黄葉」はけっこうあちこちにあった。高速道路を走るバスの車窓からも見えたし、街の中でも目についた。その中には、紅葉化したものもないではなかったが、ほとんどは褐色と表現すべき葉だった。
    
    随筆集としてもすぐれている朝日小事典『日本の四季』(朝日新聞社荒垣秀雄編)の紅葉の項に「アメリカの文学者ソローの随筆に『オータムナル・ティンツ』(秋の色、つまり紅葉)というのがあるが、(これはむしろ例外で)外国では日本ほどには紅葉ということをさわがないように思う。しかし紅葉は、植物の秋を象徴するものではある」《注1》という一説がある。まったく同感である。秋色はもみじの紅葉があってこそ映える。

    なぜ、かの国々には紅葉は少ないのだろうか。『ブリタニカ国際大百科事典』(電子版)には、紅葉の色の原因は主にアントンシアンやフラボン系の色素にあり、落葉の前にクロロフィルが分解し、黄色のカロテノイド色素が残るような場合には黄葉となる、とある。が、この説明はごくごく単純化したものであり、経験上からも明らかなように紅葉の色の模様、出具合はその年の気象条件によって一様ではない。

    その微妙さを『日本大百科全書』(小学館)は、「紅葉が鮮やかに発現するには、温度、水分、光などの環境が密接に関係し、昼夜の寒暖の差が大きいこと、適度の湿度があること、紫外線が強いことなどが必要である」と述べている。米国発行のブリタニカと違って、紅葉(もみじ)狩りを楽しむ文化の日本人の手になる事典らしい説明だ。

    素人考えでは、中欧の気候などの条件の他にやはり樹木の種類が日本とかなり違うのだろう。落葉広葉樹の種類が欧米より圧倒的に多いため、という説もある。紅葉のあれこれについて文献やネットで調べていたら、知見に富んだサイトを見つけた《注2》。その中の一節に「最盛期の全山紅葉のシーンを見てみたいと毎年、紅葉情報を気にかけています。(さしずめ)『世の中に絶えて紅葉のなかりせば……』の心境です」とあった。在原業平の有名な「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」の和歌をもじったものだ。日本では、晩秋ともなると、山々や渓谷がは緑をバックに赤や黄色のコントラストを描く。それがニッポンの秋のイメージだ。

    旅の最中そんな気持ちでいたせいか、中世の教会の荘厳さやドナウ川の景観の美しさに見とれながらも、私自身は紅葉がないかどうか絶えず気にしていた。そしてついに1個所、見つけた。チェコチョムスキー・クルムロフ城の一角にある小さな中庭である。そこにカフェのテラスがあった。テラスの上を飾るようにフジ棚式の仕組みが備えられ、そこからツタ状にたくさんの葉が垂れ下がっていた。どの葉も赤い。黄色が中心の「中欧の秋」の中にあって、その紅葉はひときわ鮮やかに見えた。日本の山あいで見るもみじとは違う情趣。そこで記念写真を撮ったのは言うまでもない。

   
《注1》  『森の生活』で知られる米国の思想家・詩人・博物学者でもあったヘンリー・デイヴィッド・ソローのことか。引用文中に(これはむしろ例外で)とあるのは、ブログ筆者が挿入したもの。

《注2》  「ことばを鍛え、思考を磨く」(http://blog.goo.ne.jp/excelkoba/e/a3ef6474eeb8761502939a2fd72eede6