「怒り心頭に発する」か「達する」か

(第239号、通巻259号)
    
    東日本大震災の被災地・岩手県陸前高田市の松を薪にして京都の伝統行事「五山送り火」で燃やす計画が二転三転の末、京都市側が「薪から放射性物質が検出された」と受け入れ拒否を決めたことをめぐって陸前高田市側は「岩手が危ないという風評被害をいたずらに広めるものだ」と猛反発、市民の中にも怒り心頭の人が少なくなかったようだ。
   
    ここで言う「怒り心頭」は話し言葉では時々使われる。本来なら「怒り心頭に発する」とすべきところを省略した言い方だ。激しく怒るという意のこの慣用句について文化庁が数年前に行った調査では、「怒り心頭に達する」と間違えている人が圧倒的に多かったという《注》。「発する」と「達する」。語調も似た感じなので、この言葉に最初に接した時、「達する」と“刷り込まれる”と後になってからではなかなか違いに気づきにくいのだろう。
    
    講談社現代新書『新編 日本語誤用・慣用小辞典』(国広哲弥著)には、翻訳小説と映画雑誌に載っていた誤用の例が二つ挙げられており、「これは『心に発した怒りが心に収まりきらず、頭に達した』という理解のもとになされた表現であろうと思われる。その裏では、『頭に来る』という言い方も影響しているだろう」と筆者は分析している。   
    
    とは言え、「心頭」が「頭」を意味しているわけではない。心の中、という意味だ。「心頭を滅却すれば火もまた涼し」という慣用句は、どんな火の暑さでも心の持ち方次第では苦痛とは感じなくなるという一種の精神論を説いたものだが、「心頭」を「心」の意に取っている。
    
    『明鏡 ことわざ成句使い方辞典』(北原保雄編、大修館書店)は、「『に』は『〜において』、『発する』は外へあらわれ出る意。心中の怒りが抑えなくなることをいう」と詳しく述べたうえ、わざわざ「誤用」を文法解析して以下のように注を付けている。
   「『に』を到達点を表す助詞と解し、怒りが心に到達するの意と考えて『怒り心頭に達する』とするのは誤り」と断じ、「怒り心頭に達して家を飛び出す」という“誤用の例文”まで添えている。
    
    『明鏡国語辞典』の編者の北原保雄氏は、『問題な日本語』(大修館書店)シリーズの編著者でもあることからうかがえるように、どちらかと言えば言葉の変化、新用法に寛容なはずなのに、こと「怒り心頭」に関しては意外なほど守旧派だ。

《注》 4種類の慣用句について全国16歳以上の男女3652人を対象に調査。「怒り心頭」の場合は、本来の用い方の「発する」を使うとした人は回答のあった2107人の14パーセントに過ぎず、「達する」を用いるとした人が約5倍の74パーセントという結果だった。