「やばい」の扱いに見る辞書の個性

(第202号、通巻222号)
    「やばい」に「すごくいい」「旨い」などとプラス・イメージの意味が加わったのは、前回のブログで紹介したように割と最近になってからだ。いくつかの国語辞典を引き比べてみると、新用法に対する姿勢、言い換えれば辞書の個性が分かってなかなか面白い。
    まず、国民的な辞書を自負する岩波書店の『広辞苑』第6版は「不都合である。危険である」と旧来の意味を簡潔に載せているだけ。語源も用例もなく、実にあっさりと片付けている。
    日本最大の『日本国語大辞典』第2版(小学館)は、「(「やば」の形容詞化)。危険や不都合が予測されるさまである。危ない。もと、てきや・盗人などが官憲の追及がきびしくて身辺が危うい意に用いたものが一般化した語」と詳しく記述しているものの、近年の新用法には言及していないという点では、『広辞苑』と同じである。
    このブログでしばしば引用する『明鏡国語辞典』(大修館書店)』も『新明解国語辞典』第6版(三省堂)も、プラス・イメージの意味は載せていない。記述に長短があるのはともかく、代表的な辞書の扱いがこうなのだから他は推して知るべし、と考えるのが普通だろう。
    しかし、どの辞書も新用法をまだ認知していないのか、と言うとそうではない。たとえば手堅い語釈で知られる『岩波国語辞典』は第7版で、旧来の語義を述べた後に「品のない言い方。ならず者の隠語から。近年は『すごい』の意味でも使う」と先取りし、上述の各辞書とは一線を画している。『岩波国語辞典』と言えば、規範性が高いとされるだけに意外な感じがする。
    『広辞苑』と同じクラスの小学館大辞泉』の場合、手元にある初版(1995年12月1日発行)は、旧来の意味だけしか扱っていないが、1年に3回更新しているというデジタル版には[補説]として「若者は『最高である』『すごくいい』」の意にも使う。『この料理やばいよ』」の用例までつけ、一歩先んじた。
    新語の採録に意欲的な『三省堂国語辞典』はもっと積極的だ。第6版(2008年1月10日発行)では、「1)あぶない。『やばい仕事』 2)まずい、だめ。『そのやり方ではやばい』 3)すばらしい、夢中になりそうで、あぶない。『今度の新車はやばい』 4)(程度が)はなはだしい。『教科書の量がやばい』」と詳しい。
    辞書の紹介のしんがりに『大辞林』第3版(三省堂)を挙げておこう。【「やば」の形容詞化。もと、盗人、香具師などの隠語。 1)身に危険が迫るさま 2)省略 3)若者言葉で、すごい。自身の心情がひどく揺さぶられている様子についていう(若者言葉では「格好良い」を意味する肯定的な文脈から「困った」を意味する否定的文脈まで、広く感動詞的に用いられる)】
    言葉の本来の意味が失われ、マイナスからプラスの意に転じる現象を言語学では「意味の漂白化=semantic bleaching」というそうだ《注》。「やばい」の場合は、元の意味がなくなったわけではなく、新用法が付加されつつあるというべきだろう。新用法を追認するかどうかだけでなく、語義全般の記述が辞書によってこれほど濃淡に差が出るのも珍しい。


《参考》 「やばい」の語源としては各種辞典やウェブサイトを参考にすると、 1)江戸時代に犯罪者を収容した「厄場(やくば)」という語が短縮されて「やば」に、それに「い」を付けて形容詞化した 2)「矢場」。表向きは弓を射る遊技場だが、裏で売春が行われていたこともあり、取り締まりの対象になる危険な場所という意から?泥棒が刑事のことを「やば」と呼んだことから 3)「いや、あぶない」が早口で「やあぶ」→「やぶ」→「やばい」に変化した 4)泥棒が夜中に地面にはいつくばって忍び込んだことを「夜這い」と言ったことから、などの諸説がある。
《注》 NHKテレビの番組「みんなでニホンGO!」(2010年7月22日放映)によれば、英語の“nice”という単語はその一例だという。現在では、「すばらしい」「素敵だ」というプラス・イメージの典型的な言葉だが、かつては「まぬけな」というマイナス・イメージの意味だったそうだ。確かに『ランダムハウス英和大辞典』の語源欄には、「無知の」のラテン語から「愚かな、単純な」の意の古期フランス語を経て中期英語の「間抜けの」の意になった、とある。その“nice”がマイナスからプラスの意に変わったのは19世紀頃といわれる。