「“ヘボン”とは私のこと?」と“ヘップバーン”

(第178号、通巻198号)                            
    横浜が開港して150周年を迎えた昨年、横浜市は「Y150」と銘打って記念日の6月2日を中心に様々なイベントを開催したが、歴史を振り返れば、開港してわずか4カ月余の1859年10月17日、日本の文化、教育、宗教、医療など多方面に大きな足跡を残したJ.C.ヘボン博士が来日した。その業績の中でも特筆すべきなのは、我が国初の本格的な英語辞書『和英語林集成』の編纂(さん)である。
    いわゆるヘボン式ローマ字は、米国人の彼が和英辞典を作るにあたって日本語を表記すのに用いたアルファベットが基になっている。神奈川県がパスポート申請者の記入参考用に出しているホームページ《注》のローマ字表に従えば、「し」を“si”ではなく“shi”、撥音の「ん」はたいていの場合“n”と表記するが、“b”“m”“p”の前に限っては“m”にし、“shimbun”(新聞)、“homma”(本間)、“sampei”(三平)とする方式だ。
    このヘボン式ローマ字の創始者の名前は「ヘボン」で定着しているが、英語のスペルでは“Hepburn”。今ならカタカナで「ヘップバーン」と表記するはずだ。現に「ローマの休日」や「マイ・フェア・レディ」などで有名な女優の“Audrey Hepburn”は「オードリー・ヘップバーン」、「黄昏」「旅情」などの名作で知られるアカデミー賞常連の大女優 “Katharine Hepburn”は「キャサリン・ヘップバーン」と書くことが多い。「ヘプバーン」とする人もいるが、「ヘボン」とはまず言わない。
    「ヘップバーン」が、文字から読み取った言い方、つまり目から入った言葉とすれば、「ヘボン」は耳で聞き取った音をそのまま日本語に表記した言葉と言える。実際の英語の発音はどうか、音声の出る電子英和辞書で試してみたところでは“p”の音が弱く、かすかにしか感じられないので、「ヘバン」あるいは「ヘボン」と聞こえる。その点で言えば、江戸時代から明治時代の日本人の発音の方が文字に引きずられることがなかったため、ネイティブの英語に近かったのかもしれない。
    辞典を作った当の“Hepburn”博士自身は「ヘボン」と呼ばれることを嫌がるどころか、漢字で「平文」と称していた。私の手元にある講談社学術文庫和英語林集成』(第3版)の表紙裏の日本文には「米國 平文先生著」と記してある。しかし、女優の2人は、「ギョーテとは俺のことかとゲーテ言い」という川柳をもじって「ヘボンとは私のこと?」と言うかも知れない。


《注》 神奈川県パスポートセンター(http://www.pref.kanagawa.jp/osirase/02/2315/hebon.html