「異和感」に「違和感」を覚える

(第137号、通巻157号)
    
    5年前に出た文藝春秋の特別版『美しい日本語』(9月臨時増刊号)を読み返していたら、西義之・元東大教授のエッセイに次のような一節があるのに気付き意外に感じた。
    
    「私はとくに天邪鬼(あまのじゃく)ではないつもりだが、『美しい日本語』という言葉を前にすると、なんとなく異和感のようなもの、坐りの悪い思いにとりつかれる」。高名なドイツ文学者の西先生には失礼だが、「異和感」という語を目にして坐りの悪い思いにとりつかれた。「異和感」と表記するのは、典型的な間違いであって、正しくは「違和感」と書く、と長い間信じてきたからだ。
    
    『漢字を正しく使い分ける辞典』(中村明著、集英社)には、「いわかん 違和感」の見出しのもとに「しっくり調和しない感じ、の意。その意味内容が、ふつうと異なることに通じるため、『異和感』と書き誤りやすいので注意」とある。愛用の『明鏡国語辞典』(大修館書店)では、語義解釈の後の「表記」の欄で「『異和感』とは書かない」とわざわざ注意を喚起している。その語を「異和感」としたままの増刊号を文藝春秋が刊行したのは単なる誤植の見落としなのかもしれない、とも考えたが、どうも違うようだ。
    
    それというのも、上述の文藝春秋『美しい日本語』には、外山滋比古氏の「母国語の発見」という題の一文があり、そこにも「異和感」が使われていたからだ。「(サッカーの)サポーターというファンの熱狂ぶりはただごとではないが、それほど異和感はない。お互いいくらか共鳴するところがあるからだろう」という文脈だ。これは、誤植ではなく、筆者本人がそう書いたものだろう。
    
    外山氏といえば、専門の英文学はもとより言語学、意味論など幅広い分野で数多くの評論、エッセイを書く「知の人」である。奇をてらわない、平明な現代的な文の名手で、その著述が大学受験の国語の試験問題にもよく出されることでも知られる。たまたま今月16日の毎日新聞の書評欄「今週の本棚」の豆ニュースに「東大、京大で一番読まれた本」として同氏が20年以上も前に書いた『思考の整理学』(ちくま文庫)が紹介されていた。それほどの人物が不用意に「異和感」を使うことは考えられない。
    
    実は、「異和感」と表記する識者は少なくない《注1》。書家の石川九楊氏もその一人で、『二重言語国家・日本』(NHKブックス)の中では「なぜ日本人は、『日本人とは』『日本文化とは』と問うのか。おそらくそれは、問う側が、日本人であること、また日本文化に対して、異和をもつからである。異国の地で日本人に出会った時、親近感と同時に、嫌悪感をもつという意識は、この異和感に生じている」と繰り返し書いている。
    
    その場の雰囲気や周囲としっくりしない、価値観とそぐわない、ちぐはぐな感じがする、といった意味の言葉はふつう「違和感」と表記する。文化庁の『言葉に関する問答集 総集編』にも「『いわ感』と言う場合の『いわ』という語はすべての辞典で、漢字表記を『違和』としており、『異和』としたものは一つもない」と明言している。ただ、『新明解国語辞典』(三省堂)が1989年発行の第4版になって初めて「異和感、とも書く」と記述し、今の第6版でも踏襲されているが《注2》、辞書界ではまだまだ少数派。とても一般的な表記として定着したとは言えない。私個人も「異和感」には「違和感」を覚える。


《注1》 日本語の専門家ではないが、宮本真巳・東京医科歯科大学大学院教授は、あるサイトで、「対人関係にズレがあって生じる不快感を辞書では違和感というが、私は、こうした生理的・身体的な感覚を、辞書で誤用とされる異和感という表記を用いている」と述べている。

《注2》 『日本国語大辞典』第2版(小学館)も「違和感、異和感」の二つの表記を並列して掲げ、異和感を使った文例として文芸評論家・平野謙氏の『文学読本・理論篇』(1951年)から「前者が外界と自我との異和感に根ざしているとすれば、後者はそれの調和感に辿りつこうとしている」を紹介している。