「火蓋は切って」も「落とされ」ない?! 

(第131号、通巻151号)
    日本の政界はここ1、2年、衆議院は解散するのか、総選挙はいつになるのか、の問題に明け暮れしてきた感がある。政治状況によっては、とうに「総選挙の火蓋(ひぶた)が切って落とされた」かもしれない――という文のカギ括弧の中の表現は、厳密に言えば誤用になる。が、実際にはどこかの首相ではないが、辞書でも扱いに「ブレ」が見られるのである。
    「火蓋を切る」は、戦いやスポーツの試合を始める時に使われる言い回しだ。ふつうは「決勝戦火蓋が切られた」という風に受動態(受け身)で使われる。その際、「火蓋が切って落とされた」と「落とされた」を付け加えられることが多い。歯切れがあり、声に出すと語調がよいせいか、放送でよく耳にする。まったく不自然には感じない。私自身もしばしばこの表現を使ったことがあるような気がする。しかし、「火蓋」の本来の語義を考えると、「火蓋が切って落とされた」では意味をなさない、という。
    火蓋とは、『三省堂国語辞典』第6版によれば、火縄銃の火皿(火薬を詰め込むところ)をおおうフタ、の意だ。これを切って開くことは点火の準備であり、即発射につながる。「火蓋を落としては銃が壊れてしまう」と茶化す向きもあるがしかし、『明鏡ことわざ成句使い方辞典』(大修館書店)』では、「火蓋は切っても落ちることはない」と明言し、「火蓋を切って落とす」は「幕を切って落とす」の混同からきた誤りだ、と断じている。『デジタル大辞泉』にも、同様の「補説」が載っている。つまり、本来は、「火蓋を切る」が正しい用法といえる。
    ところが、現実には「火蓋を切って落とす」の表現の方が圧倒的に多い。たいていの辞書はこの語句を立項していないが、岩波書店の『広辞苑』第6版(DVD-ROM版)は「火蓋を切る」の項の最後に「『幕を切って落とす』と混同して、『火蓋を切って落とす』ともいう」と記述し、「ともいう」としながらも追認している《注》。
    驚いたことに『大辞林』第3版(三省堂)では、「火蓋を切る」の語義解説として「戦い・争い・競争など始まる。火蓋を切って落とす」とある。『広辞苑』より一歩も二歩も踏み込んだ積極容認派だ。中型国語辞典の代表的な2冊がこうだと、いずれ他の辞典も追随し、やがては「火蓋を切って落とす」が伝統的な用法と並んで標準的な語法になるに違いない。
    事のついでに「幕を切って落とす」とはどういう意味かと言うと、上記の『大辞林』に詳しい説明が載っているので、それを紹介しよう。語義は「(歌舞伎で開演のとき、舞台の幕の上部を外して一気に落とすことから)物事を華々しく始める」の意。文例として「戦いの幕を切って落とす」「全国大会の幕が切って落とされる」と能動態、受動態の二つが挙げられている。
    言葉の「ブレ」ならぬ「揺れ」についてはまた取り上げたい。


《注》 『広辞苑』も、1985年11月5日発行の第3版3刷では、「火蓋を切って落とす」は掲載していなかった。それが、1991年11月15日発行の第4版で初めて「火蓋を切る」の語義の中の地の文として「火蓋が切って落とされる」と使いだした。完全な「正用」扱いだ。1998年11月11日発行の第5版でも記述に多少の違いがあるものの基本的な扱いは第4版を踏襲している。つまり、最新の第6版になって、伝統的用法に重点を置き直しつつ、現実の言葉の運用にも配慮する記述に変えたのである。おそらく、第4版、5版の「現状追認」を時期尚早と反省したのであるまいか。一つの言葉の定義・用例を巡ってまさに辞書もまた「揺れて」いる典型的な表れだ。
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