「形容詞+です」表現の是非 

(第132号、通巻152号)
    横浜から山形へ。今回のブログは出張先の山形からの発信である。山形新幹線の車中で、数日前に刊行されたばかりの別宮貞徳著『裏返し文章講座 翻訳から考える日本語の品格』(ちくま学芸文庫)を読んできたところなので、その感想の一端を題材にした。
    別宮氏といえば、英語の欠陥翻訳の指摘を長年続け、その内容を著作に発表してきている英文学者・翻訳家である。こんどの新著は、悪訳にみる日本語論とでもいうべき内容の本だ。
    俎上(そじょう)にあげられた翻訳者は、アダム・スミス著『国富論』の水田洋氏、ジョン・K・ガルブレイス著『不確実性の時代』の都留重人氏やD・H・ロレンス著『チャタレイ夫人の恋人』の伊藤整氏、E・ブロンテ著『嵐が丘』の阿部知二氏といったそうそうたる学者、作家である。ここまで手厳しく批判して大丈夫なのか、とこちらが心配するほどの鋭い筆法なのだが、別宮氏が指摘しているのは正鵠(せいこく)を得ていて同感せざるを得ない。
    ここでは、個々の翻訳の欠陥批判はさておいて、「総括」と題した同書の最終章「悪文を生み出すもの」の講義の中から言語に対する感性について取り上げたい。「高いです」の太字のゴチック体のかぶせ見出しの下にこうある。
   ――「高い」に限らず、形容詞に直接「です」をつけるのはよくない。ふしぎなことに「ですね」「ですよ」「ですか」と終助詞までつけば違和感がありません。もともと「です」は体言にしかつけられなかったんですが、昭和20なん年だかの国語審議会で、形容詞につけてもいいことになった。でもね、日常会話ではともかく、書きことばで「高いです」とか「うれしいです」とか書くと、まるっきり子どもっぽくなります」――《注》
    まさに私がふだん感じていることだった。「うれしいです」。この表現を目にすることが実に多い。小学生ならいざ知らず、5,60代の大人や私が定期的に目を通す大学生の文章にも少なからず見受けられる。たしかに、昭和27年(1952年)に第1回国語審議会が当時の文部大臣に答申した「これからの敬語」という建議の中で、「これまで久しく問題となっていた形容詞の結び方、たとえば『大きいです』『小さいです』などは、平明・簡素な形として認めてよい」とお墨付き与えた歴史がある。これを受けたのか、『広辞苑』第6版も「です」の項で、「『面白いです』のような形容詞に付いた言い方は、昭和10年代までは由緒のないものとされたが、現代は正しいものと認められている」と明記している。
    だから今や間違いとは言えないのだが、私には違和感が残る。と言うより、『大きいです』『小さいです』の言い回しには稚拙な感じがつきまとって離れない。なんとか、他の言い方ができないか、思い悩む。たとえば、単に「うれしいです」というと、いかにも幼い感じが否めないので、つい「うれしい限りです」とか「うれしい気持ちでいっぱいです」とか書いてみたりする。と、実際の気持ちより表現がおおげさになる。
    別宮氏は上述の著作で、「(ほかの言い方を工夫もせず)『うれしいです』などと書く人は頭まで幼稚にできているんじゃなかろうか、とぼくは思っています」とまで書いている。では、どんな工夫があるのか。なかなか奥が深く、しかも実用上も役立ちそうな内容なので、引き続いて次回に考えてみよう。


《注》 この本は、カルチャーセンターで講演した内容をまとめた、という体裁で書かれている。