「紫陽花」とライラックの奇縁?!

(第126号、通巻146号)
    6月の花といえば、紫陽花あじさい)である。私の住む大船からJR横須賀線で一駅の北鎌倉にアジサイ寺として有名な明月院がある。1年前訪ねた折には、外国人を含むおおぜいの観光客が訪れていて列をなすほどだった。明月院の紫陽花を思い出したのは、先週号のブログ(「リラ冷え」の札幌とライラック)について感想を寄せてくれた先輩のEメールがきっかけだ。結びに「よく降りますね。路傍のアジサイが喜んでいるようです」とあった。先輩氏はかつて鎌倉を仕事場とし、その後もしばらく住み続けていたこともあって鎌倉の寺社に詳しい。
    紫陽花には雨がよく似合う。「リラ冷え」に続くブログの題材として「梅雨」か「紫陽花」を考えていたところだったので、「元鎌倉文化人」の先輩氏のメールに触発されて百科事典に当たってみた。そこでまったく思わぬ記述を見つけた。
    『日本大百科全書』(小学館)の「アジサイ」の項に「倭名鈔(わみょうしょう)《注1》以来の漢名である‘紫陽花’は、中国ではライラックとする説が有力である」と書かれていたのである。日本で「紫陽花」と書けば、「アジサイ」のことにほかならない。それが、漢字の本家本元の国では‘紫陽花’=ライラックだという。まさか、と信じられぬ思いがした。
    この説の背景には、唐の時代の大詩人・白楽天の『白氏文集』があったと考えられる。白楽天が書いたのは「色はにして気は香り高く、まことに美しい花があるが、誰も名を知らないので‘紫陽花’と名付けよう」という意味の詩だった。この‘紫陽花’が具体的に何の花を指すのか今となっては確認できないが、倭名鈔を編纂した平安時代の源順(みなもとのしたごう)という学者が、日本に昔からある「アジサイ」にあたると思いこみ、‘紫陽花’《注2》の3文字を倭名鈔に取り入れたのではないか、という説だ。
    前述の『日本大百科全書』からの引用個所は、植物研究家の湯浅浩史氏が執筆したものである。同氏はその後、朝日新聞の朝刊1面で「花おりおり」のコラムを数年間連載した。コラムをまとめた同名の著作(愛蔵版)の中で湯浅氏は「白楽天命名した紫陽花は、陽を好み『気香(かん)ばし』と詠じた花であって、アジサイとは‘別の花’」であるとの主旨を述べたうえで、アジサイを日本で紫陽花と表記してきたのは、「千年の誤用である」と断じている。
    同氏のウェブサイト「植物の漢字表記」《注3》では、さらに踏み込み「考えてみればアジサイは日陰を好み、どちらかというと陰の花で、陽の花とは言いにくい。私は白楽天の(言う)紫陽花はライラックではないかと思います。ライラックは中国が原産なのです」とライラック説を打ち出している。
    アジサイは日本原産だが、英語では‘hydrangea’という。小学館ランダムハウス英和大辞典』や研究社『リーダーズ英和辞典』の語源欄によれば、‘hydr’は近代ラテン語の「水」、‘angea’はギリシャ語の「容器」の意の‘aggos’からきている。つまり「水の器」である。確かに「太陽」とは逆のイメージである。花そのものもライラックと違い「香り高い」と言えない。しかし、清楚でいて風情があり、しかも雨に濡れるとひときわ鮮やかになる花である。俳句の題材としてもよく取り上げられる。
      紫陽花の香り薄きをよしとせり(飛高隆夫)
      紫陽花の色いと冴ゆる雨の中(牧原佳代子)


《注1》 「倭名鈔」は、平安時代中期の漢和辞書・事典。「倭名類聚鈔(わみょうるいじゅしょう)」「倭名類聚抄」「和名類聚抄」とも書かれ、その題名は写本によって異なる。一般的に「和名抄」「倭名鈔」「倭名抄」と略称される。
《注2》 アジサイを中国語でどう表現するのか、いくつかのウェブの自動(機械)翻訳サイトで試してみたところ、「八仙花」とか「綉球」と出た。日本からの逆輸入なのか「紫陽花」と表記する例もあった。
《注3》 「植物の漢字表記」(http://yoshi5.web.infoseek.co.jp/cgi-bin/dfrontpage/fudemakase/SYOKUBUTUkanmei.htm