「他山の石」の誤用〜正用の濃淡

(第117号、通巻137号)
    「他山の石」という成句ほど様々な意味、ニュアンスで用いられている言葉はそれほど多くないのではあるまいか。と、思ったのは、『私の語誌 1〈他山の石〉』(三省堂)を読み直したのがきっかけだ。この本の編著者は、個性的な語釈で有名な『新明解国語辞典』の編集主幹を務めた故山田忠雄氏である。
    この成句については、今号のブログで取り上げるつもりではいたのだが、当初は本来の正しい用法とされる例文と明らかに誤用している例文を単純に並べて比較し、誤用の‘侵食’具合を書こうかという軽い気持ちだった。しかし、『私の語誌』を読んで事はそう単純にはいかないと思い知らされた。○は正しい意味・用法、×は間違い、と決めつけられないのだ。
    原典は、中国最古の詩集『詩経』の「他山の石、以(もっ)て玉を攻(みがくorおさむ)べし」。一般的には「よその山から出た粗悪な石でも、それを砥石(といし)に使えば自分の玉を磨くのに役立つ」の意から「どんなに劣った人の言行でも、つまらない出来事でも、それを参考にしてよく用いれば自分の修養の助けになるということ」を指す《注1》。「この不祥事を以て他山の石とすべし」とか「あの事故を他山の石として今後の安全管理に万全を期したい」とかといった形で使われる。
    一方で、「先生を他山の石としてわれわれ弟子たちも学問に励んでいきたい」と、他山の石を「模範」の意味に解する例も多い。もちろん、誤用である。『広辞苑』第6版は「本来、目上の人の言行について、また、手本となる言行の意では使わない」と注記している。同じ「模範」でもプラスイメージではなく、マイナスイメージで悪い意味での見本として使われることもある。「このたびの不祥事を他山の石として綱紀の粛正に取り組む」はその一例だ。
    あるいは、自分とは関わりのないことの意に解して「私はその事件とは他山の石だ」とか、異郷の地で死を迎える意味に取って「異国の戦場で他山の石となる」とかの誤用も見受けられる《注1》。これらの用法と似たような間違いも含め、『私の語誌』には、驚くほど多様な意味のバリエーションが豊富な文例と共に約60ページにわたって掲載されているのだ。集録の例文はなんと119にものぼる。
    『私の語誌』は、これらの文例を整理して用法を以下のように8種類に分類している。1)見習うべき手本、好模範、2)見習いたくない例、覆轍(ふくてつ=)の良い見本、3)対岸の火災視できない、身近な教訓、4)内国の失敗例、自戒の資、5)何かの参考例、6)他人の参考となる自家の見解・経験、7)専門家の参考となる非専門家の意見・考察、8)つまらぬ石、粗悪な石。
    この分類にあたって山田忠雄氏は独特な、時に辛辣な解説を加えている。たとえば、8)の用法について「元は謙抑(けんよく)の気持ちから言外に自分が‘つまらぬ’という含意があったのを粗末な石と誤解してしまったのである」との立場から「凡庸な辞典、低俗な参考書の中には、‘石’に形容詞の‘つまらぬ’‘粗悪な’を冠する例を往々見受ける」とまで酷評している《注2》。
    ならば、自分が編集主幹を務めた『新明解国語辞典』は「他山の石」にどのような語義を与えているのかというと、第2版(昭和49年11月発行)では「(よその山から出たつまらない石でも使いようによっては自分の玉をみがくのに役立つことがある意)自分が何かをする際に、いい参考となる例」としているのだから驚く。‘石’に形容詞の‘つまらぬ’をつけ、なんと「凡庸な辞書」そのものの語釈なのだ。しかし、これは主幹も気付かぬうちに出てしまったうっかりミスなのだろう。第3版(昭和56年2月発行)以降は次のように変わっている。
    「(よその山から出た石であって初めて、玉をみがくのに役立つものだ、の意)見てくれが良くなくとも、そのものの大成には欠くことの出来ない好材料」《注3》。ただ、第2版の「俗に模範の意に解するのは誤り」の注記は3版以降にも引き継がれている。ともあれ、「他山の石」の用法は1回のブログではとても書ききれないほど濃淡さまざま多岐にわたっている。


《注1》 『ことわざ成句使い方辞典』(北原保雄編著、大修館書店)
《注2》 原文は、もっと激烈な記述で、日本最大の「諸橋大漢和」辞典についても、「図体が大きいのに比例して」中身はおおざっぱ、と言わんばかりのことを述べている。
《注3》 いささかこなれない記述だが、原文のまま。