「#」は‘シャープ’ではない

(第115号、通巻135号)
    
    文字の代用の役割を持つ記号の話題を紹介した前回に続いて、記号に関連したテーマを取り上げるが、今回は軽いトリビアもので一服しよう。
    
    我が家の固定式電話機。最近は「イエ電」と言うようだが、シャープ製である。一昔前に買ったものだが、簡易コピー装置、ファクス、留守電機能もついたプッシュボタン方式。外出先から伝言内容を聞いたり、通話先が出ない時にはメッセージを吹き込んでおいたりすることもできる。そんな機能を使う場合には「シャープを押してください」と自動音声が流れてくる。これは別にシャープ製だからというわけではない。
    
    どの社の電話機(ケータイも含めて)も同じだ。ダイヤルボタンの右下隅(9の下、0の右)に「」の記号がある。しかし、このボタンのマークは、正確には‘シャープ’ではないのである。
    
    シャープといえば、半音上げる音楽記号で、フラット(♭=半音下げる)と対をなす。別名、嬰(えい)記号。形はではなく、である。一見、同じようだが、よくよく見ていただきたい。最初のは2本の横線が水平で縦線が右に傾いている。しかし、次のは逆に2本の横線が右肩上がりで縦線は2本とも垂直になっている。似て非なるもの。二つの記号は本来、種類が別なのである。電話機についている#マークは、「シャープ」ではなく、「井桁(いげた)」と呼ぶのが正しい。
    
    井桁というのは、『百科事典マイペディア』IC辞書版の説明を借りれば、「井戸を上から見た形を図案化した模様で、正方形を井筒、ひし形を井げたというが、普通あまり区別されない。紋章や衣服の模様にも使われる」とある。旧住友財閥の家紋はその一例だ《注1》。また、井桁、井筒と書く苗字や地名もある。
    
    コンピューターの世界では、番号記号とも呼ばれる《注2》。そう言えば、英語の本などで数字の前に#を置いて#123と表記しているのを見かけることがある。123番あるいはナンバー123という意味だ。それが電話機の世界でなぜ音楽用語の「シャープ」と呼ぶようになったのかは定かではないが、今さら「井げたボタンを押してください」と言っても通じまい。
    
    本物のシャープ、つまり音楽記号の方の形は前述の通り♯である。右肩上がりなのは、五線譜に書くとき、水平の五線と記号の横線が重なってしまい、見分けがつかず紛らわしくなるのを防ぐためであろう。
    
    それはともかく、この(シャープ)は、音楽用語としては、‘全音’ではなく‘半音’高いことを示す変化記号なのにコンピューターでは‘全角’扱い。ところが、井桁については、全角のと半角の#の二つが用意されているのがおもしろい。


《参照》 財団法人「日本ITU(国際電気通信連合)協会」のホームページ(http://www.ituaj.jp/index_11_faq.html)、『音楽用語ハンドブック』(カワイ出版)

《注1》 夏目漱石の家紋も井桁の一種だった。漱石の随筆『硝子戸の中』に「私の家の定紋(じょうもん)が井桁に菊なので、それにちなんだ菊に井戸を使って……」という一節がある。

《注2》 英語では“number sign”とか“hash mark”とか言う。