辞書の「誤謬」(一部改訂版)

(第96号、通巻116号)
    このブログを書く際、常に手元に欠かせないのは辞書類だ。毎回、少なくとも数種類の辞典、事典を参考にする。
    文字や意味を調べるのに頼りになる辞書だが、絶対視すべきではない。言葉足らずの説明や肝心の語釈の間違い、まれには誤植もある。

    簡にして要を得た小型の国語辞書として定評のある『岩波国語辞典』。その第3版の第1刷(1979年12月4日発行)に何とも皮肉な誤植があった。「誤謬」という漢字が間違っていたのだ。語の定義だけでなく規範意識にもすぐれた『岩波国語辞典』を初版から愛用している私は、第3版についても発売されるとすぐ購入したらしく、問題の第1刷を持っている。それにはこうある。
  ごびゅう【謬】あやまり。「――を犯す」
    漢字部分の最初の文字が「説」になっている。よほど注意深く見ないと読み飛ばしてしまいかねないが、「誤謬」の「」を「」という間違った字のまま印刷・発行してしまったのである。この辞書の用例に従えば、自ら「誤謬を犯した」わけだ。
    この「誤謬」は次の刷りから「正された」ことは言うまでもない。こうしたことがあるから辞書は新しいものができても初刷版の購入は見送り、2刷以降を買うべきだ、といわれるが、辞書マニアとしてはミスを見つけるのもまた楽しみの一つだ。
    誤植のようなケアレスミスとは違って語釈、語の定義の間違いは、辞書の根幹に関わる。一例として「酢豆腐」をみてみよう。
     手元にある『広辞苑』(岩波書店)の(第3版、第4版、第5版、第6版)には、いずれも
  「知ったかぶりをする人が酸敗した豆腐を『酢豆腐という料理だ』と称して食べたという笑話から)知ったかぶり。きいたふう。半可通(はんかつう)」
    とある。『大辞林』(三省堂)や『大辞泉』(小学館)も同様の語釈だ。なんだか、この文を引用している私自身を指しているようでいささか気がひけるが、それはさておき、『広辞苑』の初版では、語義の1番目になんと「生豆腐に酢をかけた食品」と実在する料理として記載され、正しい語義の「きいたふう。半可通」という説明は2番目に挙げられていたというのである。
    ウエッブ百科事典『Wikipedia』は「虚構記事」の具体的な例の一つとして「酢豆腐」を取り上げ、次のように述べている。
  [かつて多くの国語辞典には、「酢豆腐」に「生豆腐に酢をかけた食品」というまったく誤った語釈を与えていた。これは、他の辞書編纂者が無検証のまま転載したためで、『広辞苑』の初版あたりで指摘されるまでいくつかの辞書に同様の記述が見られた。(中略)なお、『広辞苑』では第2版から正しい内容に修正されている]
    『国語辞書事件簿』(石山茂利夫著=草思社)によれば、『広辞苑』の前身の『辞苑』も、その親辞書の『広辞林』、『辞林』などの辞典も同工異曲の語釈をしていたといい、このうち『広辞林』は昭和58年発行の第6版でも直っていないそうだ。先行辞書の孫引きで「誤謬」までもが踏襲されてきていたのである。

   辞書は引くだけでなく、読むのも楽しい。しかし、誤謬を犯されては困る。


《お断り》 今回の「辞書の『誤謬』」は、「gooブログ」時代の2006年10月1日号の内容を一部手直しして再録したものです。