「偽悪家ぶる」は「悪者ぶる」とどう違うのか

(第92号、通巻112号)
    麻生内閣が発足する当日の9月24日付け毎日新聞朝刊のコラム「つむじ風」。「ぶら下がりの虚像」と題した記事の前振りに、こんな「麻生像」が載った。
    「今日、首相に選出される麻生太郎氏は、心を許した相手には『とてつもない金持ちに生まれた人間の苦しみなんて普通の人には分からんだろうな』としんみり語る。時に偽悪家ぶるところがあるが、これは率直な気持ちだろう」。
    「偽悪家ぶる」。あるいは「偽悪者ぶる」。自分でも会話では比較的よく使う言葉なのだが、文字にしてみるとどこかおかしい感じがするのに気付いた。
    この言葉は大きく二つに分解できる。まず「偽悪」。「わざと悪くみせかけること」であり、『明鏡国語辞典』(大修館書店)は「『偽善』をもじって造られた語」と注記している。ほかの辞書の説明もほとんど同じだ。「偽悪家」の用例まで出している辞書は『明鏡』以外ではまれだが、意味は、常識的に「わざと悪くみせかける人」と解釈できる。
    また、「ぶる」は、「名詞や形容詞、形容動詞の語幹などに付いて、いかにもそれらしい様子をする、そのように振る舞うなどの意を表す」(三省堂大辞林』第3版)のであるから、「偽悪家」と「ぶる」をつなげると、「わざと悪くみせかける人を装う」という意味になる。
    なんとも回りくどく、すんなり頭に入らない。というより「馬から落ちて落馬」式の「重言」ではないか、との疑問もわいてくる。「偽悪」という言葉自体が「悪ぶる、悪いふりをする」ことなのだから、それに重ねて「ふりをする」を付ける必要はないのではあるまいか。
    私の知る限り「偽悪家ぶる」という語を見出しに立てている国語辞書はない。しかし、「言葉遣いとしておかしい」との指摘もほとんど聞いたことがない。むしろ、「偽悪家ぶる」はいたるところでごく普通に目にする。
    ちょっと古いところでは、戦後の朝日新聞の代表的な名文記者の1人、斎藤信也が「人物天気図」(1950年)という連載記事で作家の三島由紀夫を取り上げた際、「育ちの良さ。キラキラ光る才能。端正なポーズ。背のびして偽悪家ぶる口吻」と書いている。
    「偽悪家ぶる」ほど頻度は多くないが、「偽善家ぶる」という表現も時々目にする。麻生首相にあてはまるかどうかはともかく、「インテリはよく偽悪家ぶる」に対して「金持ちは時に偽善家ぶりたがる」というのはその一例だ。
    どちらも「重言」ではなく、もともと正しい用法なのか、それとも「重言」だった語がいつの間にか市民権を得て定着したのか、判断つきかねるが、今の私ならあえて「偽」は使わず、「悪ぶる」、「善人ぶる」とでも表現する。
    ちなみに冒頭の毎日新聞の「偽悪家ぶる」の部分の英訳は、同紙の英文サイト“The Mainichi Daily News”によれば、‘Even though Aso occasionally assumes a persona where he “pretends” to be a bad guy,’。つまり、「悪役のふりをする役柄を装う」と日本語の原文を逐語訳している。