「確信犯」の使い方に「確信」を持てるか

(第91号、通巻111号)
    「確信犯」という言葉は誤用されることが多いと言われるが、「正用」との線引きが難しい。意味が微妙で使い方がきわめて幅広く、一筋縄ではいかない言葉だからだ。それでいて、会話でも、書き言葉でもよく使われる。ごく最近の例では、問題発言を連発し、在職わずか5日で辞任した中山成彬国土交通相についての新聞記事がある。
    「失言3連発」のうち「日教組をぶっ壊せ」発言を取り上げた9月28日付け朝日新聞朝刊は「もはや発言は『確信犯』で、『失言』ではなくなっていた」と書き、「完全に確信犯だ。辞めて済む話ではない」という公明党関係者の見方を紹介した。同じ日の毎日新聞も「確信犯だ。辞任を覚悟して言っているのだろう」との自民党幹部の発言を引用して報道した。
    「確信犯」は、もともと法律用語からきた言葉、と思われるので、昔使った『法律学小辞典』(有斐閣)を引いてみたら「政治的・思想的・宗教的信念に基づいて自己の行為を正当と確信して行われる犯罪、その犯人を確信犯人という」とあった。国語辞典もほとんどすべて、上述の法律用語の定義に則(のっと)った説明を第一義に出している。
    ユニークな語釈で有名な『新明解国語辞典』第6版(三省堂)にしても「自己の信念に基づき正当な行為と信じて行う犯罪。特に、宗教的・政治的な義務感・使命感に基づくものを指す」という解釈だ。
    この語釈から言えば、例に挙げた記事の「確信犯」の使い方はほぼ正しい。ただ、あえて「ほぼ」としたのは、中山発言自体は「犯罪」とはいえないからだ。現実的な定義としては、出自の法律用語に固執せず、「社会的には物議をかもしたり、悪とされることがあっても、自己の信念に基づき正当と信じてなされる言動」とでもして「犯罪」に限定しないほうが実態にかなっているように思う。
    一般的には例えば「違反を承知で禁止薬物を使用するのは確信犯だ」とか「社用のノートパソコンを自宅に持ち帰って私用に使っている。ばれても、家で仕事をしていた、と言い訳するなんてヤツは完全に確信犯だよ」といった使われ方が多い。
    この用法は、伝統的な立場からは正しいとはみなされていない。辞書で取り上げている場合でも「俗用」という注付きである。
    例を挙げると、『広辞苑』(岩波書店)は1998年11月発行の第5版までは「道徳的・宗教的または政治的確信に基づいて行われる犯罪。思想犯・政治犯・国事犯などに見られる」との語釈だけだった。今年1月発行の第6版(DVD-ROM版)で「俗に、それが悪いことと知りつつ、あえて行う行為」の意が追加された。『日本国語大辞典』第2版(小学館)も同様で、2項目に「俗に、トラブルなどをひきおこす結果になるとわかっていて、何事かを行うこと。また、その人」としている。
    原義から意味が変化した転義のほうが広く使われるようになっているのに、辞書のほうがなかなか追いつかないのである。とは言え、「故意犯」とも言い切れない。「わざと」「意図的に」やるにしても犯罪ではなく、強い信念からではなく、単なるウケ狙いや仕事をサボる口実といったケースもあるからだ。
    ここまでだらだら書いてきて、辞書ですら「確信犯」の扱いに苦慮しているのだから私ごときが確信を持ってこの言葉の使い方を包括的に述べるのは無理だ、とようやく思い至った。
 
《参考サイト》 文化庁の「平成14年度国語に関する世論調査」(http://www.bunka.go.jp/1kokugo/14_yoron.html)。この調査では、「確信犯」の現代的な用法については誤用、との立場から質問している。